フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

研究日々録または謝罪という相互行為

2011-11-09 00:09:53 | today's seminar

しばらくごぶさたしたので、研究指導と授業での話を2つ。

11月に入り、修士課程の学生さんは論文作成に目の色が変わりつつある頃だが、先日、謝罪について分析をしている学生さんが、韓国人同士の場面で、謝罪する側、謝罪される側の両方の謝罪のストラテジーを数えてまとめたのを聞いて、ちょっと驚いてしまった。なぜなら日本語の教科書だって、接触場面の謝罪の研究だって、あるいはさまざまな言語での謝罪研究でも、そんなことをしている論文は見たことがなかったからだ。

そうした研究の前提にあるのは、謝罪行為は、受け入れられるかどうかわからない、かなり深刻な相互行為であると考えているからなのだろう。ぼくだってそうだ。だから、謝罪のストラテジーは、謝罪をする側でしか数えない。謝罪される側の行動は謝罪に対する応答だけをみることになる。

その学生さんが考えていた韓国人同士の謝罪は、友人関係にある場合ではあるが、受け入れられることが前提になっている、やや儀礼的、やや遊びの要素も入った、謝罪の相互行為なのだ。謝罪する側がある謝罪の要素を言わなければ、謝罪される側がそれを口に出して(つまり約束の要素を言わなければそれを要求するというかたちで)、謝罪の相互行為を遂行していき、終わりまですすめていくということらしいのだ。まあ、分析のやりかたにはかなり難点があったのだが、久々に面白いポイントではある。

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今日の大学院授業では、Monica Hellerのモントリオールにおけるコードスイッチングの短い論文を読む。そこにあった1つの例にみんなで目をとめた。

バイリンガルを求められている病院の職員のうち、英語系の職員がフランス語で患者に応対するのは、彼らにとってはひとつのfavorを与えることであって、彼らがそうすることで、英語系の人びとの優位さ(つまり権力関係)が維持されているというくだり。

ボランティアで日本語を教えている人の中に、ときどき、日本語でも通じるのに、中国語で話そうとする人がいるよね、という話になって、もしかしてそれってその人にとってはfavorのつもりだったのかなあ、とそんな話をした。

コメント
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