フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

ゲゾイゼ渓谷と探卵患

2008-11-24 23:30:10 | old stories
これはほんとに古い話だが、かつてウィーンのPettenkofengasseにいたときのこと、向かいのアパートにウィーン大学日本研究所創立者のスラヴィック名誉教授がお住まいだった。

スラヴィック先生は昼寝をして、夜になると起き出して仕事をするという話だったが、なるほど夜12時頃からずっと窓のカーテンから灯りが漏れていた。そのスラヴィック先生にお会いすると、斎藤茂吉との出会いや短歌をもらったことなど嬉しそうに話してくれたものだ。それからアルプスのゲゾイゼ渓谷は面白いとも教えてくれた。

日本研究所には小さな図書室があって、ほとんど空気も入れ換えないために澱んだほこりっぽい中に文学書が並んでいたが、その中からぼくはときどき鴎外や茂吉の随筆を借りては読んでいた。茂吉の留学時代のもの、とくにウィーン時代のものには名文の、そしてかなり自由自在に書かれたものがあった。有名な「接吻」というのもそうだし、ゲゾイゼ渓谷をウィーン人の娘といっしょに旅をした話も読んだ。その随筆は「探卵患」という題名で、恥ずかしいが、今の今までとくに調べようともせず意味のわからなかった題名だった。

ところが、先日、何気にスラヴィック先生の名前をネットに入れてみると、ウィーン大でお世話になったパンツアー先生が書かれたスラヴィック先生と茂吉との関係についてのエッセーに当たったのだ(http://www6.ocn.ne.jp/~kaisendo/mokitida.htm)。そこでぼくはスラヴィック先生が1997年に亡くなられたことを知ったのだが、同時に「探卵患」を久しぶりに思い出したのだ。

「探卵患」は冬のゲゾイゼ渓谷を旅する話で、旅館に泊まって、後学のためにと娘にタライで朝の湯浴みをする姿を見せてもらったあと、「探卵患」と文字を書いて筆を置いている。20年ぶりにぼくはグーグルにこの3文字を入れてみたのだが、そこには、

「「探卵之患」(たんらんのうれい):自分の拠り所を襲われることへの恐れ。内幕を見抜かれる恐れ。親鳥が巣を離れている隙に卵を取られてしまう心配のこと。」

とあったのだ。茂吉は果たしてこのタンランノウレイを題名にしたのだろうか。もしそうだとしたら、彼は何を恐れたのか?

ともあれ、パンツアー先生とスラヴィック先生に感謝をしよう。
コメント
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