院長の気まぐれ日誌

仕事のこと、私生活のこと、気になることなど不定期に書いて行きたいと思っています^^

歩き続けること

2013年06月26日 | 日記
人は本来、自分が思っている以上に高い能力を持っていると云われております。

自助努力を前提に、どんなに高い目標でも達成できる素晴らしい能力です。
ある人は達成でき、ある人は達成できない事もなく、誰でも自分の夢を達成することが可能なんですね。

そんな素晴らしい能力を、誰もが持っているにも拘らず、人によっては、その能力を封印してしまっています。

それは、生まれた環境や人生観の中で、幾度か失敗を経験した後に物事を自虐的に考え続けるとか、段々と自信喪失に陥ってしまう事もあるかも知れません。

また、早く結果を出したいと思うことで、目標に達しないことも考えられます。
目標が大きいほど、直ぐには達成できないこともしばしばあります。

成功する事も、失敗することも、幸せやそうでないことも、長期間どちらかを考えつづける事で実現化しますので、順調なときには豊かさで満足しますが、失敗を引きずり悩み過ぎると、とことんマイナス運気を引っ張り込んでしまいます。

斯く言う私も、失敗は付き物ですが、はじめから失敗するかも知れないような、取り越し苦労をせず運命を受け入れています。

予想以上に失敗を重ねる時には、一時期、その場から離れて見る。

気分転換や立て直しに、時間が掛かることもありますので、気持ちが落ち着くまで他のことをしながら、優先順位の高い方から、イメージトレーニングをしてみます。

慌てず焦らず、自分を縛り付ける余計な発想、固定概念を隅に置きながら行動して見る。

人目や優劣などを嘆くことなく、ひたすら歩き続けることが目標達成に大切ではないかと感じます。
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愛はつよい

2013年06月14日 | 日記
何か新しい事を本格的に行おうとする時、各方面からのエネルギーの指導が入ってきます。
趣味なども、深く探求すればするほど、類似したエネルギーを引き寄せます。


以前、友人が自宅に隣接した場所に墓地があるとの事で、名刹から取り寄せたお札で、家中に結界を張ったと話しておりました。
「一般家庭に大げさな…」と大笑いしましたが、本人は真剣な面持ちでした。

自宅での生活は、と聞いて見ると、「至って快適に過ごしている」との話しをしていたので、気にもしてませんでしたが、たまに逢う町中での立ち話しは、心配事などを溢してました。

不安げな話しに、「以前の結界は今でも在るのか」の問いに、何時も綺麗に手を入れて居る、掃除をしていると話してました。

「必要以上に気にしていたら、どんなエネルギーも引き寄せる」ことを知ってるのかな…。

本人にしたら、何かの悪いモノが家の中を横断するか、居座らないことを、嫌っての結界だったのでしょう。
本人の努力は認めます~

そもそも、結界は、空間的聖域のこと。
その結界が正しければ、その張ってある部屋の住人は、愚痴一つも溢さないわけなのに…。
溢す筈が無いわけですが、病気になったり、イライラしたり、怒りやため息などあり得ない事なんです。

そして正しい結界は、その中に入っている人の姿が見えないこと。
昔話の「耳なし芳一」のアレですね。
その領域に入られないのではなく、見えないが正しいところです。

どんなに強い結界が存在しても、低マイナス・エネルギーは簡単に出入りなどできます。
強力な結界など、おちゃのこさいさいで突破します。
映画、テレビで見る結界は、ただの視覚的なインパクトの為ですね。

そんなことから、家に結界を張るより、家族全員が何時も円満に朗らかになる事です。

愛はつよいってことですね。
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自己責任の世界観

2013年06月09日 | 日記
あの世の話など、全く関係ない、信じていない方には、どうでも良い話しなどを書いてみましょう。

その前に、家名が途絶えるとはどのような事かを、考えたことがあるでしょうか。
そんな事を考える時には、実際にその立場にならないと考えませんね。

たまたま、跡取りが居ないとか、何かの都合で家名を継がないこととなる訳です。
この世的には、たまたまかも知れませんが、あちらから見た場合、これ以上その家名の存続は許し難く滅亡させる事が妥当との流れになるのですね。

誰かが、何かをやらかして、目上から叱責を受ける感じでしょうか…。

歴史上で、天をも恐れぬ悪行を犯しても存続している家は、あちこちに在ります。
存続を許されない訳ですから、「天をも恐れぬ悪行」よりも大それた事をやったのかと云えば…、口は災いの元ですね。

私も含め、私の先祖にも言い過ぎてしまった者が居ります。
人を傷つける言葉と云うものは、逆の立場になれば解るものです。

もう、他界して三十年以上になりますが、本人の生き様が、あの世の行き先を決めるわけです。
「死んだら終わりよ」な~んて、呑気に流していれば、それはそれで良いかも知れません。

明るい世界と暗がりでは、まさに天地の差です。
暗がりに居る者は、何故、私がここに落ちるのかが理解できないと、生前と同じように頑固さを捨てずに怒っているようです。

お坊さんが「安らかにしてます」って言われれば、「そうですか」って安心しますよね。
回忌法要も欠かさずしてて、これで大丈夫だ!って安心します。

それで、当の本人に、「ほんとうに、今、安らかなのか?」を聞いて、答えが返って来て納得していることでしょうか?

お坊さんが、霊能者が、そのように言っているじゃ、な~んだか、って感じかな。

生前、怒り易くて、頑固で、酒乱で、暴言を吐く人が逝去したら、皆が謙虚な仏になると思いますでしょうか…。

この世界も、あちらの世界も、共に自己責任の世界です。

高額な戒名、布施で天国に行けたら、子孫の苦労なんて皆無ですよ。

そんな事で、時々足を引っ張りに来るご先祖の為に、年間供養をしてみたのですね。
365日、毎日、あちらの高僧から直接指導下されば、頑固な先祖も少しは変わるだろうと思ったワケです。

そうしたら、思いも寄らず、ほんの数日で大人しくなってしまって…。
あの頑固な…が、じっくり経を聞いて居る姿、口コミで供養しただけの事は有ったと、私の方がビックリですわ。

それ以外にビックリしたのは、大人しかった先祖も、「私も供養をお願いしたいけど、申し訳なくて私に言えない」と謙虚な祖母までが、親類の夢に三日間も連続で出て来たことを聞いたこと。

確かに、四日前から、何方かが私の肩に手を当てて何かを訴えてましたが、誰なのかも判らず、何をしたいのかも解らなかったのでそのままにしてました。

改めて祖母に聞いて見たところ、「羨ましかった」とのこと。
羨ましい位の供養みたいです。

遠目で、祖先の二人が供養されているところを、他の先祖が見て居て「羨ましかった」らしい。

それなら、祖母にも感謝の想いで本物の供養しようと名刹に連絡している最中に、また肩に暖かい手で「ありがたい」の想いが伝わったので、喜んでいる様子が解り私も嬉しくなってしまって…。

そして、それでは済まなく成り、近所の亡なった方や親類も、「私も私もお願い…」と心の声が聞こえて来たので、「あなた方の子孫にしてもらいなさい」とは念じたものの、それでもしつこく「お願いお願い…」の連発だったので、「知るかそんなもの、子孫に名刹に辿り着くように指導しなさい」と返したのです。

冷たいようですが、それも自己責任。
地獄に落ちた親類が居るとしても、それを救う手立てを知っているから、その生きて居る親類に話したところで本気にするかは知りませんが、それこそが自己責任です。

「知らなかった」事自体が自己責任です。

地獄は心の病院です、心の学校なんです。
生前、何が間違って来たかを問う場所です。

天国と云われる所には、心底清く、言葉も正しく、不平不満など想っている方など一人も居りません。

人は必ず死別を経験しますが、必ず再会を果たされます。
私も、この世界を全うし、何時の日か先祖との再会を楽しみにしている一人です。
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