院長の気まぐれ日誌

仕事のこと、私生活のこと、気になることなど不定期に書いて行きたいと思っています^^

多くの方々に感謝の念いを

2011年10月18日 | 日記
先週末、義母が緊急入院することになった。

朝、ゴミ出しに行った帰り、自宅前でうずくまっているところ、ご近所の方々が救急車を呼んでくれたらしい。
救急隊員の方から自宅に連絡があり、急遽掛かり付けの総合病院に向かった。

病院到着後、直ぐに処置室に通され、対応に出た先生から現在の詳しい病名を聞かされた。
脳梗塞で左側の完全マヒだった。

主治医の先生から、t-PAの提案があったが、それを注射すれば血栓が溶解して体のマヒは消える。
ペースメーカが入っていればMRIは撮れない筈からして・・・、出血が止まらないとかを考えて居ると、先生も思っていたことを話していただき、もしも他の臓器や血管に異常があれば出血が止まらなく致命的。

多分、多くの同じ状態の患者の家族が究極リスクの選択に迷うところだろうと思いながらも、リハビリすれば何とかなると半身マヒの方を嫁さんが選択してくれた。

1~2分話しができるとの事だったがマヒした口からの言葉は聞き取れなかった。
話しがまとまり、一先ず待合室に待つこと数十分、再度別な処置室に呼ばれた時には、片言の話しができるまでに回復していた。
その数十分で、話しができるまで回復するとは思いもよらず、話しながらもマヒした手足を動かせていた事に、ただびっくりしているところで、何故それほどまで回復することが出来たのか納得する出来事があった。

私自身、その奇跡的な事実を垣間見ながら・・・、義母のベッドで行われている光景を観ながら、そう云うことだったのかと目頭から涙が出るのを覚られないよう堪えていた。
嬉しくて涙が込み上げてきた。

処置が早かったから回復が早い、それはあるだろう~
しかし、今までも、何年も前に脳梗塞でマヒした方や退院後気力をなくした方も奇跡的に回復されたと、手紙をいただいたことが何人かいらっしゃる。
話しをしてあげてと頼まれ、ただ、普通に人間のあるべき姿を話しただけなのに・・・。

義母が退院した時に、寝ていたベッドで行われていたことを話しても信じてくれないだろう。

今も、当時の記憶障害が多少ある。

しかし、発症から四日後にして一人でシャワーができるまでに回復したことは、早いと云うべきことかもしれない。

私はただ、ご近所の方々や治療に専念していただいた先生方、今回も回復させていただいた他力にたいし感謝を念うだけです。
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同窓会の席上で

2011年10月10日 | 日記
昨日、久々の同窓会に参加し、皆さん昔を懐かしんで居ましたが、出席される方は社会的地位がある程度の方が殆どですね。

中学時代の卒業アルバムがない私には、過去の強烈な想い出以外は覚えておらず、その数年間の時代を過ごしてきたこと自体、実在したのかと実感が薄い。

そんな記憶が薄い中でも、六名の同窓生が他界していたことを全く知らなかった訳ではありますが、逆にやはりそうだったのかと今から振り返ると、何時の日だったか、それなりのインスピレーションを何度か受けておりました。

あの一つの空間で、同窓会はそっちのけで、都合で欠席された一部の方やこの世を去った方からの声がバシバシ入って来て、その声を消すためにアルコールのペースを上げたりしてみたが、まったく変わらず、最後は聞き役のトランス状態になってしまったりして。

基本、人は生きて居ても命がなくても魂のみ存在するもので、常に何方でも存在感はある。
その存在感の影が薄いか濃いかの判断と、その存在する場所にがどのような場所なのかで生死が判るらしいが、そこまで真剣に試そうとしたことはない。

まあ、生きるも逆も、ご本人の人生計画の基であるので、そのこと自体を知り得ないと色々な場面で、人間って苦しみが出てくるのですね。
書いていることが解り辛いなら、生きて来る時も、寿命も自己の責任で遂行されるものなので、人生の困難さの体験も、己に起きるすべての出来事が、本人に取って今後の自己を決める貴重な人生経験だと云うことですね。

書けば書くほど解らなくなってきましたでしょうか?
トランスファ超心理ですので、理解不能でしたら何時の日かお逢いできたら話しましょう~
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