最近、動画で仏教の小乗仏教と大乗仏教の違いを見ています。
日本は、大乗仏教の教えが主体で、小乗仏教はあまり広まっていません。
大乗仏教は、すべての人を「苦」から救済する方向ですが、大乗から小乗をみると、小乗は「自分だけが悟る、自分だけが助かればOK」みたいな、イヤミな流れになっています。
個人的な認識では、小乗仏教は「八正道」で、大乗仏教は「六波羅蜜」と学んでいますが、六波羅蜜の学習前に、四諦・八正道を学んでいないと六波羅蜜の真意が理解できません。
小乗は、阿羅漢の登竜門で、大乗の六波羅蜜は菩薩以上の悟りになっています。
「阿羅漢」をすっ飛ばして、「菩薩」からの修行って「どうなのよ」と感じます。
悩みや不満、執着だらけの中で、菩薩行の修行って、「そりゃ、ムリじゃね?」って思うのです。
実際、八正道を実践してみると、小乗仏教の教えのすばらしさに感動します。
小乗は、日頃のこころ(潜在意識)のクセを正し、大乗は実践修行という方向性です。
学問として理解すると、頭でっかちになり理解しにくいです。
ブッダが、苦しみなどの執着をなくすために、八つの正しい道、八正道を説きました。
そこには、自分だけが助かりたいとの思いは無く、八正道のおしえが自他共に「苦」を取り去ることを願っていたと思います。
シュタイナー哲学にも、仏教の「道」の重要性が書かれています。
ブッダが説いた「中道」には、両極端は排するおしえがありますが、それこそ、小乗と大乗は分ける教えではなく、小乗の先に大乗があるものと思って学習しています。
仏教が解りにくいと思われる方は、道徳や論語から学んでみるのもグッドです。
私も2年前、自己変革の途中で挫折したとき、瞑想中、お客さんの分身が「孔子を読んでね」と伝えてきました。
「なんで、今ごろ孔子なのか?」と思いましたが、論語を読みはじめると「初心にもどれ!」と言われたような気がして、また学び直せました。
*追記
阿羅漢とは、自分の悩みをすべて解決でき、他者の思いもすべて理解できる境地です。
日本は、大乗仏教の教えが主体で、小乗仏教はあまり広まっていません。
大乗仏教は、すべての人を「苦」から救済する方向ですが、大乗から小乗をみると、小乗は「自分だけが悟る、自分だけが助かればOK」みたいな、イヤミな流れになっています。
個人的な認識では、小乗仏教は「八正道」で、大乗仏教は「六波羅蜜」と学んでいますが、六波羅蜜の学習前に、四諦・八正道を学んでいないと六波羅蜜の真意が理解できません。
小乗は、阿羅漢の登竜門で、大乗の六波羅蜜は菩薩以上の悟りになっています。
「阿羅漢」をすっ飛ばして、「菩薩」からの修行って「どうなのよ」と感じます。
悩みや不満、執着だらけの中で、菩薩行の修行って、「そりゃ、ムリじゃね?」って思うのです。
実際、八正道を実践してみると、小乗仏教の教えのすばらしさに感動します。
小乗は、日頃のこころ(潜在意識)のクセを正し、大乗は実践修行という方向性です。
学問として理解すると、頭でっかちになり理解しにくいです。
ブッダが、苦しみなどの執着をなくすために、八つの正しい道、八正道を説きました。
そこには、自分だけが助かりたいとの思いは無く、八正道のおしえが自他共に「苦」を取り去ることを願っていたと思います。
シュタイナー哲学にも、仏教の「道」の重要性が書かれています。
ブッダが説いた「中道」には、両極端は排するおしえがありますが、それこそ、小乗と大乗は分ける教えではなく、小乗の先に大乗があるものと思って学習しています。
仏教が解りにくいと思われる方は、道徳や論語から学んでみるのもグッドです。
私も2年前、自己変革の途中で挫折したとき、瞑想中、お客さんの分身が「孔子を読んでね」と伝えてきました。
「なんで、今ごろ孔子なのか?」と思いましたが、論語を読みはじめると「初心にもどれ!」と言われたような気がして、また学び直せました。
*追記
阿羅漢とは、自分の悩みをすべて解決でき、他者の思いもすべて理解できる境地です。
