院長の気まぐれ日誌

仕事のこと、私生活のこと、気になることなど不定期に書いて行きたいと思っています^^

すべては想いから

2017年05月21日 | 日記
ここひと月の間、肩が痛く、時間によって体がなまりのように重怠くなってました。

そんな体調では、人の体を直すことが出来ないので、何が因果なのか思い返し反省したものの、一向に体調が回復することはありませんでした。

もう、その怠さは半端なく、藁をもすがる思いで、いつもの日光へ禅定しに行きました。

人は誰でも、一つや二つの悩みがありますが、悩まない人生にするには、考え方を変えるしかありません。

苦難に出会った時、降りかかった難題に嘆き悩み続けるか、自分に取って試練と考え、解決できる道を探すかで人生は大きく変わってきます。

呪われた人生だったとしても、小さなやる気で、いつでもやり直すことが可能なんです。




禅定と云っても、神社の中庭を観ながら禅に入ります。
雑念、邪念をあぶり出して深く反省します。

他人を、客観的に正しい目で見て来たかを反省して行きます。

思い返せば、その前から、イラッとしたり他人の裁きが始まり、その思いが自分をマイナス方向に流してしまったのだと痛感しました。

「あの人は〇〇を直せば、もっと良くなるのに」と。
この思いは邪念ですから、その人が理屈抜きで良くなるように信じてあげれば良かったのです。

また、昨今の凶悪犯罪で、人々の怒りのコメを見て、理由はどうあれ他人を叩く自体、正しい道とはいえないと判ってましたが、ついつい、そんな記事も見てしまったり。
他人の怒りと同通すると体調不良になります。

磁場の良い環境で、自分を見つめ直すと色々な間違いに気がつきます。

ひと月振りに、清々しい身体に戻りました。


そして、翌日仕事に戻ると、今まで通りの怠い体でした。
「やっぱ、小手先の反省では、半日しか持たんのか」と思ったりして…。

他人を裁くクセが、潜在意識から摘み取れていなかったようです。
どんな習い事でも同じで、毎日反省しないと身につかない。

神社の禅定は、確かに良い環境で心を見つめ、その時は楽になりますが、真理(哲学)を学び実践するのは生活の場ですから、損得勘定でご利益を求めるだけなら何も変わらないと思いました。

ここ数日、真剣に反省し体調が少しもどって来ました。
ゆるゆる反省は、心からの反省ではないのですね。

人は、心では「幸せになりたい」と願っていますが、自分や他人に怒りや不満をぶつけてしまいます。
その思いが、自分自身を不幸にしている事だと気がついてません。

すべては想いから、無意識の内に、自分で不幸を愛してしまってます。
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