ろうばのつぶやき

もはや逆らえないわが身の老化と世の中のIT化、パソコンを前にひとりつぶやく昨今。

映画のような話 その3 ライン復活

2019-11-14 12:57:21 | 追想
40年前に断ち切ったつもりでいた前夫とのラインが、思いもしなかった
展開で再び繋がることになった。

前夫と面談し帰国したKちゃんの話では、前夫はいろいろ便宜を図って
くれ尽力してくれることになったそうだ。

当時ふたりで撮った写真をKちゃんに見せたり(汗 、皆んなで上海に
来るのなら、ホテル、観光に関しては総て手配するとの事。

わたしに対する罪滅ぼしの対価か?

わたしは無関係になりたかっただけで、別に恨んでもいなかったのに、
向こうはかなり後悔し自責の念にかられていたらしい。

前夫ももう70代後半、今 再会すれば永年の想いから解放されるだろう。

Kちゃんを通して、6、7月からいろいろやりとりし、11 月のY枝さん夫妻の
上海行きにわたしも便乗することにした。

夫は快くマメと留守番を承知してくれ、わたしはつくづく幸せ者だと感じた。

そして不思議なことに、今の夫と再婚し札幌に移り住んだ事でY枝さんと
知り合い、彼女の娘さん・お孫さんの事由から今に至ったわけで、もし
夫と再婚してなければ、、、

全く天のシナリオは、人智を超えてドラマチックだ。
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映画のような話 その2 縁

2019-11-14 10:54:37 | 追想
友人のY枝さんは、わたしが今の夫と再婚し夫の会社を手伝うように
なったとき、事務所前のパート募集の張り紙を見て迷った末に訪れて
くれた人だった。

以来 家族ぐるみの付き合いだったが、転勤族のご主人が単身赴任に音を
上げたときに辞めて本州に行ってしまったり、関西出身のご主人が札幌
永住を望んでなかったりで、わたしとは別れる運命だったのに何故か
結果的に札幌に戻って来てくれた。

で、数年前 娘さんのKちゃんが、台湾出身男性と結婚、女の子が生まれ
上海に移り住むことになったとき、わたしはちょっとした偶然にある
予感が生じたが、広い上海で自分の前夫とKちゃんが会う必然など
起こることはないだろうと、その時はそう思っていた。

わたしがバツ一なことは皆知っていたが、札幌での友人・知人の誰にも
離婚した相手のことを話したことはなかった。

それが何故か 昨年Kちゃんが里帰り中に会ったとき、実はわたしの前夫も
上海に居て、、、とカミングアウトしてしまった。

その時もそれだけの話だったのが、上海に戻ったKちゃんがお子さんの幼稚園
問題に直面、台湾籍のご主人も上海では外国人の身分のため公立に入れる
ことができないらしい。

私立にしても何かのコネが無ければ優先順位でかなり不利のとの事。

わたしは前夫には居所を知られたくなかったが、その迷惑を承知で
もし何とか出来る事ならとの展開。

前夫は多分何かしら力になれる立場にいると判断、Kちゃんにご主人と一緒に
前夫の職場を訪ねるように伝えた。




続く
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映画のような話 その1 40年後

2019-11-13 09:30:28 | 追想
40年前にLAで別れた前夫が上海にいる
ことは、10年程前から知っていた。

彼はずっとわたしの行方を追い、兄に
連絡を取り、兄経由で手紙やクリスマス
カードなどを送って来ていた。

しかし兄の死後、それも叶わなくなって
いた。

わたしは当時の結婚は若気の至りで、
上手く行かない相手を間違って選んだ
結果だと自分で納得していたので、
未練も全くなかった。

理不尽な思いを随分したが、そんな事は
もうどうでもよかった。

が、前夫の方は自分のした事が許せず、
悔いの念からこの40年間 わたしの事を
忘れたことはなかったらしい。

男はロマンチストで、女はリアリストと
言うのは本当かも知れない。

アメリカの市民権がある前夫が、まさか
後年 上海に移り住むとは! しかも
直行便のある札幌にわたしも再婚して
住むようになるとは。

そしてこのわたしの再婚が、40年後に
前夫と再会するきっかけを作ることに
なるとは。

           続く


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命日

2019-04-14 17:40:14 | 追想
昨年の4月に亡くなった甥(故兄の次男) の命日は定かではない。

彼の愛犬マメは理解できない状況を
何日間、何十時間過ごしたのだろう?

新聞が14日の朝から溜まっていたと
言うから、その日だったのかも知れない。

わたしは彼の幼少時に殆ど会った事が
なく、大人になってからも何となく扱い
づらく苦手だった。

わたしがマメを引き取ったのは、彼に
とってちょっと皮肉な事かも知れない。

でも限られた選択肢の中で、わたしが
引き取るのが一番良かったと思うしか
ない。

先日会った長男のお嫁さんは、わたしが
引き取ると申し出てくれて、本当に
安堵したと言ってくれた。

遺されたマメをどうしようかと頭を
悩ましていたと。

引き取ったはいいものの、我々の無知と
無理解でマメにとっては更に混乱した
時期もあったが、やっと落ち着いて
くれたかな?



4/29が誕生日のマメ。
昨年8歳になったときには、ずっと
傍にいた人を失っていたんだよね。

4月は暖かい春の心地よいよい日差しを
感じると同時に、言いようのない寂しさ、
切なさを感じる月になった。













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北の大地の病院

2015-12-01 15:22:19 | 追想
M子さんとのランチ(28日)のあとで地下鉄を一駅経由し、Tさんの
お見舞いに北大病院へ向かった。

いろいろ懸念はあったが、30分ほどの内視鏡手術で済んで
経過も順調とのこと、本当に善かった。

隣の病室には幼い男の子がいて、よく泣き声がしているとか。
紹介してもらい入院できるまで1ヶ月もかかったらしい。

全道各地から患者さんが集まるだろうから、それが常態なの
だろう。

北大病院は、わたしにとって札幌の原風景なのだ。

”1949年5月 - 北海道大学医学部附属病院と改称”されたそうで、
奇しくもわたしが生まれたころ。

そして5,6歳になったころ、3歳上の兄がここに長期入院し、
当時としてはかなりの難手術を受けることになった。

わたしは縁あって、今は義姉になっている人と一緒に6時間
汽車に揺られて、兄に付き添っていた母に会いにやって来た
記憶がある。

当時とは全く違う建物、あのころも大きいと思ったが、
さらに比べ物にならないほどの大きさに改めて驚く。



わたしが辛うじて憶えているのは、昔の病院でも子供には
広大すぎてトイレにひとりで迷わないで行って返ってくるのが
ちょっとした冒険だったこと。

病棟(だったと思うが)の一隅に標本室みたいな部屋があり
いつもドアが開いていて、すぐ前にあった摘出した
胃がんの病巣が大きな瓶に入って2個並んでいたのが
見えていたこと。

まだひらかなしか読めなかったはずだが、何故解って
憶えているのか謎である。

多分母から教えてもらったのだろうが、その記憶はない。

わたしはどのくらいの間、母と離れて暮らしたのだろう。
まだ幼く寂しかったはずだ。

やっと母と会えても、機嫌の悪い兄に邪険にされて居心地が悪く、
母に思い切り甘えることもできず、ほんの2,3日で帰ってきた
と思う。

兄は60代で腎臓がんに罹ったとき、札幌の病院に来ることは
厭わなかったが、辛い思い出しかない北大病院は嫌だと言って
避けた。あのころの兄は全然わたしにやさしくなく、気難しくて
嫌な存在だった理由が、病気知らずだったわたしはそのとき
やっと理解できた。

札幌駅は当時南口と北口しかなくて、デパートなどがあって賑わい
開けていた南口とは対照的に、暗くてみすぼらしい北口を出ると
主要な建物は北大くらいしかなかったと思う。

表玄関と裏口くらいの違いがあった気がする。
線路と改札口が直結した地方の無人駅みたいな印象だった。

北口に降りるときはいつもうら寂しい思いになった。
大学受験期のころまでまだそんな雰囲気だったはずで、その後、
30代で久しぶりに札幌駅に降り立ったときは、駅構内が
様変わりしていて、新宿か!とびっくり仰天した。

それでも今はうそのように発展した北口方面でも、少し歩くと
かすかに当時の鬱蒼とした雰囲気が残っているような感じがする。

道民にとっては最先端医療の象徴みたいな北大病院も、幸か不幸か
兄のとき以来60年間、一度も足を踏み入れたことがなく、札幌に
住むようになっても間近で見る機会もなかった。

それにしても何基もあるエレベータからは、どの基からも満員の
人が吐き出され、休診日なのに人の多さに驚かされる。

Tさんから聞いた話では、手術当日の朝、何組もの担当スタッフと
患者さんが一堂に一旦集められ、それからいっせいにそれぞれの
手術室に向かうのだと言う。

私「へぇ~、 工場(のライン)みたい!」 

T「アハハ、奥さん 上手いこと言うね」


見ると60年前にタイムスリップしてしまう家にあった当時の写真。
誰が撮ったのだろう?

屋上は広い感じだが、田舎の長期療養所みたいな雰囲気。
付き添い家族とスタッフさん、今ならこんな写真は撮れないかも。

母↑ 右から2番目 ↓

守衛さんみたいな人も写っている。

今でも温室植物園があるはず。

60年も経ち医学は格段に進歩しても、患者や家族の思いや心労は
昔となんら変ってはいないだろう。

現在の医療技術を持ってしても、救えない症例は無数にあるのも
現実だが、荒涼とした北の大地に、これだけの医療施設を根付かせた
先人たちの積み重ねた歴史を考えると、しばし感慨を覚える。

内視鏡手術で、術後の痛みも全くなく、手術を受けた実感が全く
ないというTさん。明日にはもう退院できる。

今回のTさんのケースのように、冗談も言えてめでたく退院できる
ことは本当に喜ばしく感謝してやまない。


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時は過ぎ行く

2014-04-17 18:54:11 | 追想
春がきたせいか、やたら眠たくなんとなくだるい。

昨年とはまるで違って忙しくないせいか、昨年とは別な
理由で気分が凹みがち。

今日は兄の祥月命日。もう4年過ぎたんだ。
妹のようにかわいがってもらった兄の友人Sさんも昨年亡くなり、
兄とも兄弟のようだった従兄弟も2月に逝ってしまった。

先日、従兄弟の奥さんのEちゃんと電話で話した。
商売を止めることにしたと聞いて寂しい気持ちになった。
わたしの父と同じ仕事だったから。

でもEちゃんが、商売を止めて片付けだけをすればいい
生活が、こんなにラクでいいものだとは思わなかったと実感
こめて言うのを聞いて、その気持ちが本当によく解る。

Mちゃんも若く見えるけれどもう70歳を過ぎている。
従兄弟を助けて、もう充分働いたもんね。

とくに従兄弟が入退院を繰り返していたというこの1年が
すごく大変だったことは、わたしが一番理解できる。

盛岡を引き払って故郷の函館にまた住むんだと言う。

わたしの生家に勤めていて、店先で毎日通勤するEちゃんの姿に
一目ぼれした従兄弟。

Eちゃんの真っ赤なコートが印象的だったらしい。

そのエピソードを、わたしが先日言うまで、当のEちゃんは
知らなかったとは!

生家のあった界隈はすっかり変わってしまったが、
わたしもませた子供だったので、Eちゃんが通ると、
10歳年上の従兄弟をからかっていた情景が今でも
目に浮かぶ。

長い年月が過ぎても想い出だけはなくならない。
むしろより鮮明に蘇るのが不思議な気がする。

Tさんが函館へ行こうと言っても、やはり4月は行く気に
なれない。

4年前の今日、甥一家と車で函館へ向かうときのことが
思い出されて辛い。

もっと共に愉快で楽しい時間を持ちたかった・・・

しかし一方では、男の人たちがだんだん老いることの
嘆きや愚痴を次第に話題にするようになるのを聞くと、
それはそれでこちらも複雑な思いになり、兄がもし長生き
していたとしても、それはそれで幸せかな?と正直思う。

男はある意味風のように駆け抜けて去るのがいいのかな・・・
でもやはり寂しいょ~。
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チリ地震と津波

2010-03-03 18:19:08 | 追想
この前の日曜日、TV画面に津波情報がずっと
出ていた。

その昔、やはりチリで地震が起きて、それで
発生した”津波”というものが、太平洋を
ハワイ経由で、はるばる日本までやってきた。

50年前だと言うので、わたしは当時10歳
だったのだと、改めて知ることになった。

函館の港から、ほんの数キロしか離れて
いなかった生家。

早朝に、誰かが家の戸を叩き、大声で

「ツナミだ!ツナミが来てるんだ!」

と叫ぶ声で目が覚めた。

港にある朝市に店を出している知り合いの
おじさんが、父に知らせに来てくれたのだ。

恐らく、父もそのときはツナミってなんなのだ!? 
と思ったのではないだろうか。

港の防波堤を越えて海水が街中に流れ込んで
来るなんて、台風でもありえなかったもの。

当時はまさに「寝耳に水」の出来事で、夕方の
TVで知るまで、それがはるか太平洋のかなたの
チリ沖からやってきたなんて、知る術もなかった。

それでも当時は、駅前地区が床下浸水程度で
済んだと思う。

同じ函館の住人だった夫などは、わたしが経験
した駅前の騒ぎは全く記憶がないと言う。

いや、8歳上だから、もしかして函館を離れて
いたのかな?

今はとにかく津波警報も出るし、被災地チリの
状況もすぐ伝わってくる。


たまたま仕事で太平洋岸の道路を通って静内まで
行く予定があって、昨日行ってきたわけだが、
数日前だったら、完全に通行止めになっていた
ことだろう。

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ペーパードライバー歴25年でも

2008-09-01 18:55:10 | 追想
昨日、A夫人の娘さんの新車がお目見え。
下の息子さんが

「お母さん、長い間お世話になりました(笑)」と

挨拶し決死の覚悟で助手席に乗り込んで練習に
出かけたそうな。

先日来、A夫人がわたしに

「奥さん免許とったのはいつ?」とか聞いていた。

わたしは20歳くらいのとき取って、数回しか
運転したことのない、ペーパー歴なんと25年の
とき、夫を助手席に乗せ家の周囲で恐る恐る練習を
始めたのだった。

A夫人も当時、見ていたはずだった。
それで、あんなんでも何とかなるもんだと思った
のか、娘さんも弟さんを犠牲にする覚悟で
脱ペーパードライバーを決意したのかも知れない。

わたしも、当時、同年齢くらいでペーパーの友人が
車を買い、見事”脱”したのを見て、あの鈍そうな
彼女にできたのだから・・と勇気が湧いたのだった。

しかし、実際始めてみたらひどいもんだった。
頼りの夫がまず全然教える熱意がない。

今、思うに、わたしが諦めるのが狙いだったのかも?

正直、わたしはそんなに運転したいと思っていた
わけではない。しかしいつまで無駄に更新を続ける
んだろうというあせりもあった。

たまたま、社員が辞めて軽自が空いたのと、やはり
わたしも運転できたほうが、夫も仕事上ラクだろうと
健気にも奮起したというのに。

我ながらあまりの無様さ、不甲斐なさに気持ちも
凹みぱなしで、よく挫折しなかったと思うが、
時間が経てば何とかなるもんだと思った。

あれから早や15年、未だに夫が飲んだときや旅行時の
最寄り駅への送迎など、ことある毎に恩着せがましく
言ってやる

私「ゴールド免許の妻がいるとラクでしょーが!」

そして夫も必ず言い返す。

夫「わたしの教え方が良かったからです」
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網走番外地

2007-01-25 19:20:54 | 追想
今朝、夫は網走にお努め いえ、まっとうな仕事をしに。

JRで5時間以上かかる!やっぱり遠いなぁ。
しかも現場へ行くには一駅乗り継いで行かなければならない。

乗り換えの時刻表、宿の地図などプリントして渡した。
蟹食べたいな~とは思ったが、先日ふたりして旅行した
ばかりでさすがに今回は・・。

で、わたしも今日は早めに出勤なのだが、久々にドカ雪に
なった。ひとりだし午前中は除雪に費やされてしまった。

実はわたしも網走にも行ったことがある。捕まってじゃ
ありまへんよ^^;

昔、職場の同僚と取引先の人達の地方回りに便乗して行き
「網走監獄博物館」に行きました(^^ゞ

天井伝いに脱獄しようとする囚人の人形だけが今でも
はっきり思い出せる。

みんなで宿の”蟹三昧コース”を堪能し、翌朝海辺へ行って
形ばかりの”流氷”(春に近かったころだと記憶)も見た。

昨今は流氷観光ブームで、砕氷船”ガリンコ号”が超人気
だが当時はなかったしね~。
どんな街だったかな~?

わたしは流氷って氷の塊が海に浮かんでるだけだよ~と
思ってしまうのだが、乗船するとなかなか面白いらしい。

夫は初めて網走くんだりまで行ったが、観光する時間も
なさそうだしカワイソー。

わたしも寂しいので早く脱獄してきてちょ(笑
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小樽追想

2006-02-21 13:56:25 | 追想
小樽は幼いころから馴染みのある街である。

最近は新興観光地をミーハー気分で訪れるが
当時の記憶は駅前近辺に集約されている。

→写真はメルヘン交差点(?)のあたり


4~5歳のころ、3歳年上の兄が札幌の北大病院に
入院していた。

付き添っていた母に会うために、わたしはあるときは
伯父に、またあるときは父母の知人にと、誰かが札樽
方面へ行く(帰る)機会に何度か連れて行ってもらい
その度に小樽へ寄っていた。

当時は函館から汽車で6時間くらいもかかったと思う。
今、飛行機に12~3時間乗ってもあまり退屈しないのは
そのころ鍛えたせいかも知れない(^^ゞ

伯母(母の姉)一家が小樽駅からほど近いところに住んでおり
幼いわたしは伯母の苗字も知らず、「オタル」といえば
それは「小樽」であり「伯母の一家」のことでもあった。

デパートの丸井今井の近くで迷子になったときも、何を
聞かれても「オタル」としか言えなくて、どうして無事に
戻れたのか未だに不思議である。

ものの本によると、北海道初の本格的ホテルができたのは
小樽だそうである。

伯父は恐らく旧北海ホテル(記憶があいまい)にコックさんと
して勤めていて、平凡な長屋暮らしではあったが、家には
当時としては珍しいリプトンの紅茶と、しゃれたティーカップが
あった。

ときどきホテルのレストランに呼んでくれて、わたしにはいつも
高い(笑 マスクメロンをふんだんに入れた特製パフェを作って
くれた。

小樽と言えばお寿司・・かも知れないが、当時はそんな
印象はない。同じ港町函館でお寿司はすでに馴染みがあった
せいかも知れない。

伯父は大酒飲みで伯母や一人娘(従姉妹)から疎んじられて
いたみたいだが、ハイカラ好きだった父より早く、わたしに
「洋食文化」と出会わせてくれた伯父のいた小樽が、わたしに
とっては忘れられない「オタル」のひとつである。
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母の残像

2006-02-07 15:35:08 | 追想
69歳で亡くなった母の祥月命日

以前、父のことも書いたので ↙

「父の残像」

父より10歳若い母であったが、父より4年先に他界した。

働き者できれい好き、しかし本人も不満があるのに抑えて
無理をして、突然倒れてしまう。

そんなことの繰り返し・・
同姓の親は得てして反面教師になる。

わたしは、本来がなまけものなのかも知れないが
そんな母を見てきたせいか、無理してがんばると
いう考えがない。

ちょっと調子が悪ければ、とにかく身体を休める。
突然寝込むと、もっと迷惑をかけるだろうと思うから。

しかし、昔の母を知るひとは決まってこう言った。
「あなたのお母さんは、いつも着物を着て・・
 きちっとしていらして・・」

わたしは、そう言われると母を誇らしく思う気持ちと
「それに比べてこの娘は・・」と思われているのだろうと
言う思いとが交叉して、できればもう少し母に似ても
よかったとも思う。
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師走に思う

2005-12-22 19:17:31 | 追想
今年は日本各地が大雪に見舞われているが
札幌は逆に今のところは例年より楽な師走
である。

道路を隠してしまう舗道沿いの雪の土手(?)も
今年はまだ低い。


この時期、幹線道路に雪があると無いとでは、また晴れて
いるのと吹雪では仕事や雑用の効率がまるで違ってくる。

いつも行く銀行も雪山ができると路駐ができなくなったり
スーパーの駐車場もテカテカに凍っているとあぶなくて
行くのをためらうことも多くなる。

雪が少ない師走は何よりもありがたいと思う。
そして大晦日まで仕事をした年もあったが、元旦から休める
仕事がありがたい。

デパートやスーパーが元旦営業するなんてアリエナイ!!
昔、3日から初売りという職場にいて、初売り手当が一万円、
翌日も5千円付いたが、それでもお金はいらないから休みたい!
と思ったものだ。

2日からでも、とんでもね~状態で年末の疲れで熱を出し、
3日に何とか這って行った年もあった。

サボって福袋の売れ具合を見物にいったら、上司がいて
「福袋なら残っても時間をかければ売れるんだけどナ、ナッ!」と
嬉しそうに毒づく。

すかさず「ヤカマシ!」と蹴飛ばす(笑 
バツイチ30女だからこそ、パート主婦は休ませても滅私奉公
できるんじゃ~!・・の時代だった。

しかし今は元旦営業が当たり前のご時世、もしあのまま
勤めていたら・・・死んでる~!(;_;

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父の残像

2005-11-30 19:06:01 | 追想
今日は父の祥月命日・・

84歳で亡くなってからもう18年ほど経つ。
母は父より4年早く先立ったが、晩年夫婦二人の生活になったとき
チクリ、チクリと昔、父に浮気された鬱憤を晴らしていた。

わたしは鈍な子で、まったく気が付かずに育った。
かなり大人になってから母に聞かされて驚いたが、いまいちピンと
こなかった。

表面的には母は父には頭が上がらないという感じで、言い争う
こともなくけっこう仲がよかった・・はずだ。

しかし母にとってはかなり深刻で、「神サマ」に見てもらうと
言ってなんか占いか祈祷師みたいなひとのところに、幼いころ
連れていかれた記憶があるので、おそらくその件で相談に行った
のだと思う。

結果的には離婚しないでくれて母に感謝している。
ただ母には悪いが、今でも母の「悩み損」だった気がしない
でもない。

女として母の気持ちは解るが、父は妻子はもちろん、長男と
して親、兄弟姉妹の面倒を見た上、母の兄弟・姉妹にも
よくしていたし、さらさら家庭を壊す気などなかったはず
である。

ついでにお水のおねえさんたちにも気前よくしていたのが、
狭い町内でいやでも耳に入るのが母には耐えられなかった
のだろう、しかもかなり長い期間のことだったようだから。

家ではまったくお酒を口にしなかったので、父が外で楽しく
遊んでいた姿をイメージするのは難しい。小柄で美男子でも
なくハゲっぽかったが、かなりお洒落ではあった。

晩年、明治生まれの男らしく淡々と死を受け止め、亡くなった
年のお花見では「実にきれいだ!今生の桜だ」と語り、亡くなる
数日前には「人生終り!」と言い切った。

わたしは母を悩ませたかも知れないが、父が、働くばかりでなく
楽しく遊んだこともある人生でよかったと思っている。

母にも、もっと人生を楽しんでもらいたかった。
だから、母に似てすぐ深刻になる超ド真面目な姉にも、「楽しめ!
もっと楽しめ~」とハッパをかけている。

誰それのせいでこんな人生だったと、ひとのせいにしてグチを
こぼされるのは嫌だからである。

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LA追想 滞在生活 その4

2005-11-15 20:02:00 | 追想
**通信・交通・英語・映画・その他日常ごと**

当時(約30年前)のLAは日本よりよい面もたくさんあった。
1ドル=250円前後の時代なので、やはり日本よりある意味かなり
豊かな国だった。

まず電話を引くのでも、日本なら何万円もかかるのが、五千円ほどで
簡単に引けた。

ダウンタウンの確かパシフィックテレフォンという会社名のオフイスへ
行けば、数色の電話機(ダイアル式ではあったが)の好みの色を選びその場で
持ち帰えれば、アパートでモジュラージャックにつないですぐに使えた。

車がないと暮らせないと言われているのは確かだが、バスは意外に便利で
わたしは郊外のサンタモニカ市や、帰国前には行ったことがないと
言う日本人の女の子を数人連れて“ユニヴァーサルスタジオ”や
“ナッツベリーファーム”などへもバスで行った。

どんな安アパートであっても、ひねればお湯が出た、水道の水はまずく
スーパーの自販機で買ったり、家に大きなボトルを備えて配達・交換の
水ビジネスを利用していた。

W氏一家との旅行で途中コロラド州でも水を買おうとしたら
「ロスから来たのね、ポリ容器もってるからわかるわ、コロラドの
お水はおいしいのよ」といわれてしまった。

最初に住んだアパートの近くにはスーパーとマクドナルドがあり便利
だった。マニアル通りに問いかけてくれるので、注文できるように
なれば日常会話をマスターしたようなものである。

わたしは結局、カタコト英語、おそらく3歳児程度の英語しか身に
つかなかったが、後々の海外旅行ではそれで十分役に立った。
人は3歳児とでも会話できるものだからである。

向こうで見た映画の主なものは「JAWS(ジョーズ)」とアガサクリスティ
原作の「ナイル川殺人事件」、日本のように字幕スーパーがなくても楽しめた。

そのうちホームシック気味になり「男はつらいよ」などの日本映画を
見たりしたが・・。TVでは当時でも大晦日に紅白歌合戦も見られた。

有名スターの手形・足型で有名なチャイニーズグロウマンズシアターは
たしかに手形・足型はあったが、周囲はスターとは程遠い劣悪な環境に
あって驚いた。

映画の都ハリウッドの雰囲気とは結局無縁で、ビヴァリーヒルズに
しても車に乗せてもらって行ったが、門が閉まった豪邸が並んでいる
だけで有名人も出歩いているわけもない。

気候もよく慣れると生活しやすい街ではあったが、やはり多種多様の人種が
混在し、いろいろな問題を孕んでいるアメリカは正直ずっと住みたい国
ではなかった。

肌に合わないというか、よほどタフでなければアメリカ人にはなれない。
わたしは一時滞在者で終わり、帰国後も再び訪れたいとは思わなかった。

最近になって、やっと又行って見たい気が起こってきている、陸続きなのに
メキシコへも行かなかったことも悔やまれる。

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LA追想 滞在生活 その3

2005-11-15 18:16:11 | 追想
一年か一年半後に再び渡米した。

今度はグリーンカード(永住権)が下りての滞在なので好きなだけ
住めるというのに、皮肉にも長くない滞在になった。

例の合弁会社は解散しO氏は帰国、W氏は一人リトルトーキョーの
オフイスに移っていた。

わたしは結婚相手と上手くいかず、悩みながら規模の大きいパブリック
スクールに通い始めた。

クラスも初級から上級まで分かれていて、上級クラスには大学に進む
つもりの人たちがいた。

わたしは、どうせなら基礎からと初級クラスに入った。
日本人がウジャウジャいて、次に多い外国人は当時はイラン人だった。

パーレビ国王体制下で豊かで自由なイラン人が日に日に増えてきている
感があったが、後にホメイニ師下のイスラム色の強い国家に戻ったとき
彼らは国へ帰ることができたのだろうか?と今でも思う。

そのパブリックスクールも州の予算が出なくなり閉鎖になり、教師だった
フェルナンドは校長と新しく英語学校を設立した。

それまでの間、時期的な記憶があいまいだがW夫人が、三人目のおめでたの
ためサンタモニカのW家に居候しながら離婚の決意を固め、帰国までの
数ヶ月は新しくアパートを借りて過ごした。

その頃は友人知人が急に増えていた。
デパートの高○屋駐在員のご夫婦とリノまで行ってカードでプチギャンブルを
したり、学校で知り合った日本人の男の子二人を従えて(笑、ビーチに肌を
焼きにいったりもした。

別なグループだった日本人の女の子数人の知り合いだったユダヤ人(また
ユダヤ人か!)のおじいさんに何故か気に入られ、フェルナンドの開いた
学校に顔を出しているとき、キャディラックで迎えに来て「こんな学校で
英語を習わなくても、わたしとランチを食べたり、買い物に付き合って
くれたりすれば英語を覚える」とか言われたり・・。

しかし浮かれてはいられない、わたしはLAでひとり生活して行く気には
なれなかった。

そこには留学生ビザが切れたまま、中途半端に滞在している多くの日本人
留学生がいた、大学まで進み卒業するにはかなりの英語力が必要なのだ。

日本の小学校教師の職を捨て、アメリカの大学で英語で心理学を学びたいと
やってきていたキ○コさんなど、悪いがとうてい無理だとフェルナンドと
話たりしてた。

そこには永住権があって一足先に働きだした韓国人の女友達のミュンジャが
買ったばかりの新車をその日の晩に傷つけられるというやり切れなさが
あった。

自由の国アメリカと言うが、たとえ車でも女性が夜自由に行動できない
治安の悪い場所が多い国は、不自由この上ない。

W氏もLAに滞在している日本女性を多く見ていて、わたしに帰国する
よう勧めてくれていた。

そしてまた帰国前にはキャンピングカーをレンタルして、ユタ州の
ソルトレイクシテイを皮切りにイエローストーン国立公園までの
夏休暇のご一家の旅に誘ってくださった。

つづく
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