礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

弁天島の岩波茂雄、母の訪問に驚く

2018-06-27 03:09:42 | コラムと名言

◎弁天島の岩波茂雄、母の訪問に驚く

 昨日の続きである。昨日は、山崎安雄著『岩波茂雄』(時事通信社、一九六一)の第二章「東都への遊学」から、「涙の野尻湖」の前半部分を紹介した。本日は、その後半部分を紹介する。

 ある風雨のはげしい夜、かれが神殿の板の間に身を横たえて大自然の怒りを聞いていると、人声がする。たれも訪ねて来るはずもないこの島に、しかもよりによってこのはげしい嵐の夜、たれが来たのであろう。不審に思いつつ身を起こすと、数間先きの雨戸が開かれ、ボーッと明るくなった隙間から黒い人影がはいって来た。驚いて起ちあがるかれに、「茂雄かえ?」の聞きなれた言葉、近づいて見れば母ではないか。頭から髪も着物もびしょぬれである。ああもったない! 胸を衝かれる感激に言葉もなく、しばし手をとりあうばかり。あふれるものは母も子もただ涙であった。……
 聞けば母は心配のあまり、まっしぐらにここまで駆けつけ、風雨のはげしいため舟は出ないというのを、無理に船頭をたのんできたとのこと。母にはこの島に来る一カ月前から音信を断ち、居所も知らさなかったが、伊藤長七と文通したことから、伊藤の切なる勧告によって母に音信をしたのだった。
 その夜――それはこの島に来て十日目の七月二十三日のことだが――母は懇々とその不心得をさとした。お前を東京へ遊学させるために母はいかに窮乏に堪え、親戚や近隣の嘲笑を浴びてきたか。いまお前が学業を放棄し、あまつさえ親に先きだつようなことをしてくれたら、母はどうしておめおめと生きていかれよう。母の願いはただ一つ、お前が立派な人間になってくれること、それだけである。地下のお父さんもさだめしそれを願っていよう。……
 涙ながらの母の訓戒に、岩波〔茂雄〕は頭を垂れたまま泣くばかりであった。そして嵐の一夜を母と子は語り明かしたのである。
 翌日、岩波は母を柏原駅に送って行った。そのまなざしにはほっと安堵の思いがこめられていたが、びんのほつれ毛にも母老い給うの感慨をかれは抱かないわけにはいかなかった。岩波が島で書いた「惝怳録〈ショウキョウロク〉」(はからずも昭和三十一年〔一九五六〕末、蔵の中で発見された)によると、
《……此夜床につき、彼を思ひ是を思ひ、母の恩愛の厚きに係らず、我の罪深かりしを追想して、情緒紛糾悔念転切に眠〈ネムリ〉につく能はず、感情高潮になれる時一決心をなせり。曰く、「吾人の理性が如何に生存の無意義を示すとも、吾人の感情が如何に死の安慰を訴ふるとも、吾人は我が唯一の母の天地間に存命せられる限り、断じて断じて自ら我が生を絶たざる可し」たとへ万有の不可解を知ることあるも、藤村〔操〕君を学んで花の如き最後に安慰を得る能はず、又人生の憂苦を免るゝ道に失敗することあるも、かのウェルテルの跡を追ふ能はず、噫〈アア〉、一度一決心をして喜びし我は、直ちに大なる悲境に陥りぬ……あゝ涙多かりし一夜、母の愛を得たるの日。死の自由を失ひし日、人生の原野に何れに行く可きを知らざりし我〈ワレ〉が、僅に〈ワズカニ〉一活路を得たるの日。忘れがたきは明治三十六年〔一九〇三〕七月二十三日なり。》
 岩波が島を去ったのは八月二十日過ぎのことだから、母を送ってからなお一カ月ばかり滞在したことになる。
 島へ来た直接の動機について、安倍能成は、第一に学年試験を放棄したため、進級の望みを失い母に合わせる顔がなかったこと、第二に失恋からきた人生への絶望を挙げている。相手の女性は同郷詉訪の出身で東京に留学中、かれと知り合ったようだが、「惝怳録」に散見する、「余は一度愛するものをすつるに忍びず、彼は我を偽るも余は彼を偽るを得ざるなり、彼は余を怨むも余は彼を怨む能はざるなり。彼は余をさくるも余は追はざるを得ず、遂に彼の心を得る能はずとも罪を彼に帰する能はず、余は我を怨まんのみ、自ら泣かんのみ」とか、「彼女の霊と合体せん為には、水火も辞せず、生命も顧みず、只全力を尽して之を求めて止まざるなり。かく彼女を追求すると雖も、敢て彼女を神なりと見るにあらざるなり。彼女の欠点我之を認む。然れども霊妙なる力は如何に動く可しやを知らずと雖も、余の霊は彼女の得んとしてやまざるなり。かくして遂に彼女の心を得んか、余は彼女の肉体は直に〈タダチニ〉死すと雖も、余が心霊は飢えざるなり、之れ彼女の霊は彼女と共に死せざればなり。余はかくて一生独身なりと雖も、彼女の霊を慰藉者として、歓喜して清き真面目なる生涯を送るを得ん。之を余の恋愛となす」と書いているところから見て、要するにプラトニックラブの範疇を出でなかったようだ。
 前後四十日におよぶ愛着の島を去るときには、万感こもごも至って、かれは地に伏して号泣した、といっている。

 文中、「柏原駅」とあるのは、信越線の柏原駅、今日の「しなの鉄道北しなの線」の黒姫駅のことである。
 明日は、一度、話題を変える。

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