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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

新潮社の前身・新声社と雑誌『新声』

2018-06-10 08:29:00 | コラムと名言

◎新潮社の前身・新声社と雑誌『新声』

 先日、古書展で、『新潮社八十年小史』(新潮社、一九七六)という新書版の本を入手した。八八ページの小冊子だが、内容は充実している。今回、初めて知ったことが少なくなかった。執筆者は、百目鬼恭三郎(どうめき・きょうざぶろう)。生前、何かと話題の多かったジャーナリストである。
 本日は、その最初の部分を紹介してみたい。

  Ⅰ 『新声』から『新潮』へ

 『新声』創刊 新潮社の前身は新声社といい、明治二十九年(一八九六年)七月に発足している。新潮社の歴史を、この新声社の創立までさかのぼって数えると、昭和五十一年(一九七六年)でちょうど八十年になる。
 新声社で最初に出したのは文学雑誌『新声』であり、第一号は明治二十九年〔一八九六〕七月十日に発行された。菊判、本文四十一ページで、定価は五銭であった。裏表紙の奥付には、「編集者佐藤儀助、発行所東京市牛込区左内坂町二十八番地新声社」となっている。
 発行所といっても、実際には、素人【しろうと】下宿の六畳一間、それも下宿の主婦の簞笥などが置いてある部屋で、編集者の佐藤儀助(明治三十七年〔一九〇四〕の『新潮』創刊時に義亮【ぎりよう】と改名)は、当時数え年で十九歳であった。佐藤は、秋田県仙北郡角館【かくのだて】町の出身である。師範学校に入ろうとして、秋田市に出て受験勉強をしているうちに文学にとりつかれ、親に無断で明治二十八年〔一八九五〕三月に上京すると、市ヶ谷加賀町〈イチガヤカガチョウ〉にある印刷会社で働いていた。
 数え年で十九というと、今日の大学一年生に当たる。そんなに若く、しかも貧しい一介の勤労青年が、小なりとはいえ、独力で出版社を興し、月刊誌を発行するというのは、いくら早熟な明治時代でも、尋常ではない。「そんな大それたことを考えだしてどうするのか、と友だちから再三忠告を受けた」と、後年、佐藤は『出版おもいで話』(昭和11年〔一九三六〕、引用は昭和43年〔一九六八〕刊行のものによる、以下同じ)の中で語っている。第一、雑誌の資金を作る事からして容易ではなく、日給二十銭という薄給の中から、それこそ食うものも食わずに貯金をし、見かねた下宿の主婦が援助を申し出て、やっと刊行にこぎつけたという逸話が残っている。
 上京後わずか一年で、佐藤はどうして雑誌を出す気になったのであろうか。「日清戦後、急激な文化進展の波に乗って、新文学勃興の機運大いに起こった時なので、何かしら文学的に動いて見たくてたまらずにいた私は、校正係りをやったおかげで、出版、印刷のことがわかって来ると、この機会に一つ雑誌を出して見ようと決心したのである」(『出版おもい出話』)と、佐藤自身はいっている。当時の佐藤の心中をもう少し忖度【そんたく】してみると、自分の文章を思う存分自由に発表できる場所が欲しい、という気持があったのではあるまいか。当時は投書雑誌がさかんで、佐藤も早くから熱心な投書家であり、少年時代には『日本全国小学生徒筆戦場』にしばしば投稿が採られているし、上京後は『文庫』や『青年文』の投書家となっていた。その投書雑誌を自分で出せば、自分の文章は思うように載せられるし、また、投書家の気持をよく知っている自分が選に当たれば、全国の青年投書家たちにも歓迎されるにちがいない、と、考えたのではなかろうか。
『新声』第一号は、表紙の両袖に「『新声』は次代国民の声なり」「満天下同志の投書を歓迎す」とうたっている。「満天下同志」というところに、佐藤のねらいがうかがわれるようだ。また、目次下の「稟告【ひんこく】」では、「吾人は益々諸子の為に尽して、青年機関たるの名に負かざるを期す可ければ」といい、裏表紙の「寄稿概則」でも、「『新声』は青年の機関を以て自任するものなれば」と、青年投書家の機関誌である事を重ねて強調しているのである。これに「我が社は我が社の目的を達せんが為め地方に支部を設けて大に計る所あらむとす」という「社告」をあわせてみると、『新声』の性格はかなりはっきりしてくるだろう。
 つまり、既成の投書雑誌が、いわば選者の指導型であったのに対し、『新声』は、選者と投書家が同格の姿勢を示した点で、同人雑誌的な性格を有し、それに結社的な性格をも加味しているのである。『新声』第一号は八百部刷ったが、何の広告もしないのに全部売り切れたという。無名の青年が編集し、無名の筆者ばかり顔を並べている雑誌が、このように売れたのは、この種の性格の雑誌を待望する青年投書家がいかに多かったかを物語るもので、佐藤のねらいは的中したわけである。
『出版おもいで話』によると、『新声』の投稿者には、生田長江、片上伸、相馬御風、白柳秀湖、内藤濯【あろう】、吉植庄亮〈ヨシウエ・ショウリョウ〉、昇曙夢【のぼりしよむ】、土岐善麿〈トキ・ゼンマロ〉、有本芳水、川合玉堂、川路柳虹、前田夕暮〈ユウグレ〉、若山牧水らがいたといい、後に『中央公論』の名編集長となった滝田樗陰【ちよいん】も、十八、九の青年時代には『新声』の投書家で、秋田で開かれた誌友会には、大雨の中を五里も先の鉱山からやって来て目を輝かして佐藤の話を真剣に聞いていたという。高須芳次郎、西村真次、田口掬汀【きくてい】らは、投書家の中から招かれて同人、社員となって活躍した。【以下、次回】

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