礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

人格を高め、人柄が優雅になる雑誌『雄弁』

2016-05-26 04:59:31 | コラムと名言

◎人格を高め、人柄が優雅になる雑誌『雄弁』

 今月にはいってから、『青年愛誦 ポケット詩歌集』という冊子を入手した。大日本雄弁会講談社が発行していた『雄弁』という雑誌があったが、その一九三七年(昭和一二)一月号の付録である。
 「漢詩篇」と「歌謡篇」の二篇に分かれている。歌謡篇の目次を見ると、軍歌あり、校歌あり、寮歌あり、中学校唱歌あり、民謡ありと多彩である。「ローレライ」や「アリランの唄」まで入っている。
 まず感心したのが、巻末に掲げられていた、雑誌『雄弁』のキャッチ・フレーズである。
 最初に、「『雄弁』をつゞけて読めば!」とあって、そのあとに次の一〇箇条が並んでいる。

○演説談話交渉応対が巧みになる。
○古今東西の大人物に接触できる。
○居乍ら世界を知り時勢に遅れぬ。
○人格を高め、人柄が優雅になる。
○希望に輝き煩悶懊悩がなくなる。
○世の中を知り成功の近道がわかる。
○趣味が高尚に人生が楽しくなる。
○常識が高まり交際上手になれる。
○人物が練れて万人に尊敬される。
○世の為人の為に尽すやうになる。

 大日本雄弁会講談社といえば、「面白くて為になる」をモットーに、大衆雑誌『キング』、少年雑誌『少年倶楽部』を成功に導いてきた出版社である。創業時から、キャッチ・コピーの威力を意識すると同時に、読者に対し、常に、インパクトのあるコピーを提示しえた出版社だったと言うことができよう。
 それにしても、右の一〇箇条はよく出来ている。

*このブログの人気記事 2016・5・26(9位に珍しいものが入っています)

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約五百機のB29が東京を空襲(1945・5・25)

2016-05-25 04:53:19 | コラムと名言

◎約五百機のB29が東京を空襲(1945・5・25)

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、五月二五日から二七日までの日誌を紹介する(一四四~一四九ページ)。なお、『永田町一番地』は、五月一四日のあと、六月四日まで、日誌が飛んでいる。

 五月二十五日 (金) 晴
 午前八時、勤務に上番。下番者田原候補生は、
「前勤務老田中候補生の申し送りでありますが、昨日午後十時のニューディリー放送によりますと、(一)昨日、米軍艦載機約二百機は南九州の航空基地を空襲し銃爆撃を加えました。(二)昨夜午後八時ごろ、沖縄読谷【よみたん】飛行場に日本特攻隊機が八機進入し来たり、七機は着陸寸前に撃墜されたが、一機は胴体着陸したるも全員死亡した模様。撃墜機が米軍機の中に墜落したるもの多く、約二十機あまりの損害を出したと報じておりました。以上であります」
 午前八時半、隊長、上山少尉があいついで部屋に入られる。
 午前九時、ニューディリー放送が流れてくる。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、昨夜から今朝未明にかけてB29約五百機は東京、川崎、横浜にかけて空襲し爆撃致しました。繰り返し申しあげます。…………。――
 隊長「昨夜だったか、日本から攻撃は八機で、敵さんは五百機と桁が違うなあ。日本ももっと飛行機が欲しい。それにガソリンも欲しい。対等なら勝てるんだが、この戦さの差異は、生産量と補給量の違いだ」
 上山少尉「隊長のおっしゃる通りです。おそらく戦うはじめには己れを知り、敵を知って、まず対等か対等に近い状態であったと思います。いざ戦争になって武器・弾薬はじめ消耗品の大量生産と補給路線の艦船やそれを守る航空機の大量生産をやった国と、はとんどの生産資源を海外に依存し、海外からの輸入が止まれば生産量はどんどん減り、消耗品の油にいたっては南方からの輸入でまかない、国内生産の新潟油田は、ほんの数バーセントのわずかなもの。飛べる飛行機まで燃料を大事にといわれれば、片道燃料でとか片肺燃料でという言葉ができるくらいで、燃料だけは飛行機には遠慮なく飛べるように使わしてやりたい。海軍では戦艦でたしか、榛名、伊勢、日向、長門、空母では隼鷹〈ジュンヨウ〉、葛城〈カツラギ〉と残っているはずだが、燃料がたくさん要るので動けないとか。戦艦は浮かぶ砲台の役目しかできないと聞いた。どんな時代になっても、生産第一なんです。戦争には負けてないんですが、ただ今のところ生産に負けています。生産の皺奇せが戦争に来ています」
「よしわかった」といって、隊長は席を立って出られた。上山少尉は、歯を食いしばってやや興奮した模様。
午後一時ベル。――こちらは聖岳、聖岳コンドル〔B29〕十羽、浅間山に向けて進行中――「了解」聖岳とは四会【スーホイ】のことである。三日ぶりか。それにしても西北の綏江【スウイコウ】沿いの四会から入って来るのは珍しいと思いつつ発信ベルのボタンを押して放送する。「各所! 各所! 聖岳より浅間山に向けてコンドル十羽、進行中」――
了解。了解と声つづく。【中略】
 午後四時下番。今日は疲れたという気分。水浴をしようとドラム缶の入浴場に行ったら、ドラム缶一杯の水が太陽光線で湯になって、とくに上の方は熱いくらい。よく混ぜて入ったら、ちょうどよい湯加減、だれがやってくれたか多謝多謝【トーチエトーチエ】だ。
 田原が午後五時すぎに食事のために起きて来て、
「班長殿、入浴されましたか」と聞きながら昼食を食べている。
「ああ入ったよ」
「熱さはどうでした?」と聞く。
「ああ貴様が入れてくれたんか。多謝多謝だ」
「今朝下番したときにもう暑いんで、ドラム缶に水を入れておけば熱くなるかと思って入れました。熱さはどうでした?」
「上は熱くて、よく混ぜたらちょうどよい塩梅でテンホーテンホー〔天和、天和〕だったよ」
「後で自分も入らせてもらおう」
 
 五月二十六日 (土) 晴
 午前八時、勤務に上番する。下番者田原候補生は、
「前勤務者田中候補生の申し送りでありますが、(一)午後四時上番直後の午後四時五分、オオハクチョウ(P38)二羽(二機)が陽江にあらわれ、海曇【ハイエン】、広海【コウバイ】、平沙【ピンサー】、斗門と海岸線を東行し、湾岸の線に添って飛行した模様で、直線百キロを一時間近くもかけ、さらに珠海、香港と飛行し、香港から北上して深?に、深洲から北東に向け恵州に飛び、最後は午後六時二十五分、河源から北に脱去しております。(二)昨日午後十時のニューディリー放送によりますと、昨二十五日、B29約五百機は東京を空襲し、爆撃したということであります」
 報告を聞いて驚く。昨日B29が、珍しくも十機も広東を空襲し銃爆撃を加え、一方、午後四時すぎから南方海岸線から広東を中心に円を書くように深?、恵州、河源と北東に脱去したというが、かりに一時間でも重なっていたら、放送がどうなっていたかわからない。
田中に勤務に着いた早々で、ご苦労さんといってやりたい。
 一方、東京の空襲、二日連続五百機のB29なら、焼野ヶ原になるのではないだろうか。皇居は大丈夫だろうか。内心気になるが、質問すらできない。陛下はどこか安全な山の中にお移りになられた方がよいのではと思ったが、そんたことはとても口に出してはいえない。隊長も上山少尉も、自分以上に陛下のことについては心配されているはずだ。【中略】
 午後四時、勤務下番する。今日も田原が作ってくれた太陽の自然熱による入浴をさせてもらう。壮快なることこの上なし。そのうえ、お湯で洗濯すると、よくおちるように思う。
 
 五月二十七日 (日) 晴
 昨日までが二勤であったため、今日は休日である。休日なれば朝もゆっくりしていればよいのに、七時半すぎにはもう起床した。
 洗顔をすませて朝食をしていると、田原が下番して来た。田原は今日は三勤の勤務があるので、早く休ませてやらねばと思っていたが、つい口から、
「何か変わったことはなかった」と聞くと、
「前任者田中君が昨晩勤務のときにニューディリー放送で米統合幕僚長会議が一昨日(六月二十五日)に開催され、その席上、日本本土上陸作戦についての議題が討議されたと報じておりました」
「隊長殿はご存知か?」と聞けば、
「田中君のメモが報告書として隊長殿の机の上においてありました。放送はおそらく聞かれていると思います。本日、隊長殿が情報室に入られない場合でも、上山少尉殿は入られ、見られて報告される思います」と答えてくれた。
「よしご苦労。貴様は今目は三勤だから早く休め」といって休ました。
 沖縄戦の最中に何をいうのかという気持と、九死の中に一生を見出せるのではなかという期待とが交錯する。【中略】
 午前十時ごろ、もう三十度から三十二度くらいだ。正午を過ぎれぽ三十六~三十八度、体温をはるかに超える。こんな昼にはボサーとして煙草でも吸っている以外に手はない。勤務の方がずっと楽だ。
 午後四時、下番して来た田中に聞くと、
「今日はまったく静かでした。ただ午前九時、ニューディリー放送で、昨日(五月二十六日)、チャーチル英国首相が、『英国は米国と協同して一切の困難を切り抜け、日本に当たらねばならない』と演説したと放送しました」と報告してくれた。
 今にして思うと、ドイツの敗戦はあまりにも痛手だった。だれが独伊の敗戦を予想したであろうか。戦争とは最悪の場合を考えて動かねばならないものだ。明日は午前零時からの勤務なので、夕食後は早くから横になる。

*このブログの人気記事 2016・5・25

 

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東條英機元首相の処刑と辞世

2016-05-24 02:32:49 | コラムと名言

◎東條英機元首相の処刑と辞世

 映画『大東亜戦争と国際裁判』については、いろいろ述べたいことがあるが、本日は、そのラストの場面を紹介してみたい。
 この映画のラストは、東條英機元首相が処刑される場面である。
 処刑前、土肥原賢二(信夫英一)、松井石根(山口多賀志)、武藤章(中西博樹)、東條英機(嵐寛寿郎)の四人が、一室に集められ、机の前に座っている。いま、東條が色紙に署名をしようとしている。すでに色紙には、右から、土肥原賢二、松井石根、武藤章の三人の署名があり、一番左に、東條が毛筆で署名した。
 続いて四人は、教誨師の花山信勝(中村彰)から「酒」をすすめられる。この酒は、黒いビンに入っており、ビンの形状から、洋酒と思われる。紙コップに注がれた酒を、手錠をはめられた両手に持ち、口を近づけて飲む姿が、何とも哀れである。
 このあと、松井石根の発声で、「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」を、それぞれ三唱。手錠のせいで、両手は、胸の高さまでしか上がらない。
 将校に促されて、四名は部屋を出る。米将校二名、MP一名、花山師、武藤、松井、土肥原、東條、MP二名という順で列を作り、暗い廊下をゆっくりと歩いて、処刑場へ向かう。「13A」と書かれた鉄の扉の前までやって来た。ここが、処刑場のようである。
 花山師も、処刑場の中までは入れない。「13A」の部屋にはいった四名は、そこで、頭から黒い袋をかぶせられる。最初に、死刑台に昇るのは、東條英機。階段の前で、東條は、黒い袋を脱いで、上を見上げる。おもむろに階段を昇り始めるが、ここでは、東條の足元だけが映る。やがて、何かが落ちるような音が……。
 画面が変わって、字幕。東條英機の辞世。

身はたとえ
千々に裂くとも及ばじな
栄ゆる御代を
おとせし我は

 世に伝わっているものと、若干、字句が異なるようだが、映画では、右のようになっている。
 さらに、字幕。

時に――
昭和二十三年
十二月二十三日
午前零時二十分

*このブログの人気記事 2016・5・24(10位に珍しいものが入っています)

 

 

 

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沖縄の米軍、与那原に進出

2016-05-23 04:34:02 | コラムと名言

◎沖縄の米軍、与那原に進出

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、五月二三日と二四日の日誌を紹介する(一四二~一四四ページ)。なお、『永田町一番地』は、五月一四日のあと、六月四日まで、日誌が飛んでいる。

 五月二十三日 (水) 晴
 午前八時上番する。昨日の午前中の敵機来襲以降は静からしい。内地の相手は米軍だが、ここは蒋介石軍だ。米軍から新しい武器や弾薬の補給を受けているが、蒋介石軍はやはり軍そのものに力があると思えない。したがって、毎日攻撃はないようだ。
 正午のNHKのニュースが流れてくる。
 ――本日、駐日デンマーク公使が日本に対し国交断絶を正式に申し入れて来ましたと。
 デンマークはドイツのすぐ北の方にある小国で、昨年までドイツの占領下にあったが、逆にソ連か米英に取り返されて、付き合い上でまったく意味はないと思う。【後略】

 五月二十四日 (木) 晴
 午前八時上番す。下番者田原候補生は、
「前勤務者田中候補生の申し送りでありますが、昨夜午後十時、ニューディリー放送によりますと、(一)沖縄の米軍は東西両海岸線で戦車を先頭にして本格攻撃に移り、昨日(五月二十三日)、与那原【よなんばる】に進出しました。(二)B29百機は昨日、東京を空襲しました。以上であります」
 沖縄の東西両海岸を進攻しているということは、中部山岳地帯は進転していないということでもある。山岳地帯では、日本軍は頑張っているのだ。
 午前十時ベル。「こちら保線班です。情報室ですか」「そうです。情報室です」「男体山より東側の回線、全面的に接断〔ママ〕されております。那須山、恵那山、鳥海山は不通です。修理していきます」「了解」
 電話の内容をメモに記録し、「上山少尉殿経由隊長殿」として回す。
 あの重い配線を背負って急な山道を進んでいると思うと頭が下がる。こんな机の上でじっと座らせてもらって八時間たてば終わりと違う。
 上山少尉は隊長の前に地図をひろげ、その地図を指さしながら説明している。【中略】
 午後四時、下番する。下番して内務班に帰ると、一勤の田原君がちょうど起床して昼食を食べていた。久しぶりに雑談しながら、洗濯や入浴を一緒にする。そのうちに夕食の時間となる。夕食も雑談しながら食べるのは楽しいもんだ。

*このブログの人気記事 2016・5・23(10位に珍しいものが入っています)

 

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ローレライの歌とナチズム

2016-05-22 05:28:46 | コラムと名言

◎ローレライの歌とナチズム

 本日は、新東宝映画『大東亜戦争と国際裁判』(一九五九)について、雑感でも述べようと思っていましたが、一昨日のコラム「ハイネ作詞『ローレライ』と清水幾太郎」に関わって、本日未明、畏敬する青木茂雄さんからメールをいただきましたので、そのメールの一部を転載させていただきます。
 青木さんからは、右コラムにあったドイツ文の部分について、その日本語訳もご教示いただくことができました。その訳は、早速、右コラムの当該部分に補綴させていただきました。以下は、青木さんからメールです。

 この詩が、ハイネのどの本にででいるのかしらべてみました。
『歌の本・下』(岩波文庫、井上正蔵訳)の「帰郷」の2番目の「かなしみに」がそれでした。
訳者の注には次のようにあります。
「有名なローレライの歌。ライは岩を意味しローレまたはルーレは妖魔を意味する。ライン川のこの美しい魔女の伝説は、前期浪漫詩人クレーメンス・ブレンターノの着想による譚詩を通じて知られ、ライン物語として発展したが、これに影響されて同じく浪漫派の詩人ヨゼフ・フォン・アイヒェンドルフの抒情詩『ローレライ』ともなった。ハイネは、同詩人の詩篇を知っていたが、ハイネの作品は、むしろ今日ではほとんど知られていないアイヒェンドルフの友オットー・ハインリヒ・レーベン伯の『ルールライの歌』から直接刺激されて作られたと推定されている。(略)ことに、何よりもハイネの一字一句は流麗で、まさしく佳調そのものであって、芸術歌謡として従来のいずれの作をも凌駕し、ジルヒェルの印象的な作曲とともに最も人口に膾炙していることはいうまでもない。」
 レコードの解説文によると「ドイツ民謡」として紹介されている例が多いようですが、作曲者も特定されているようです。しかし「ドイツ民謡」としてもまったく違和感がありません。
 まさに、ドイツの心の歌となっていますが、これを禁止してしまうとは、ナチズムがいかにドイツの伝統や文化に無理解であったかを示しています。

*このブログの人気記事 2016・5・22(10位に珍しいものが入っています)

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