礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「横浜事件」とは何か(『言論弾圧史』より)

2015-11-08 07:27:02 | コラムと名言

◎「横浜事件」とは何か(『言論弾圧史』より)

 ここ数日、日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)の紹介をしていたが、本日は、その再終回。本日は、同書の「出版弾圧史(昭和期)」の章(執筆・畑中繁雄)の「末期的旋風――昭和十九・二〇年」の節の全文を紹介する(一三〇~一三四ページ)。
 世にいう「横浜事件」については、多くの解説書、解説文があるが、この文章は、事件から五年と経過してしていないうちに発表されている。それだけに、事件の余韻が伝わる貴重な文章だと思う。

 末期的旋風
  ――昭和十九・二〇年
 いくらかでも自由なる意志に基づく編集出版活動は、前記「六日会」を利しての『改造』『中央公論』への決定的弾圧を頂点として完全に終焉した。(昭和十八年)にもかゝわらず、すでに敗戦前夜という、まさにファシズム体制崩壊の一歩手前に焦慮していた軍閥官僚は、なお威嚇的効果の万全を期して、むしろ総仕上げ的な言論大弾圧を強行した。世にいう「横浜事件」がそれである。
 この横浜事件とは「東京を中心とする三十余名の言論知識人が横浜地方検事局思想検事の拘引状を携えた神奈川県の特高警察吏によつて検挙投獄された事件の総称であり、被検挙者の所属は研究所員や評論家を含めた主として編集者よりなるジャーナリストであつたところに特徴があつた。従つて、事件は多岐に分れ、それぞれのケースの間の連関はきわめて乏しく、むしろ複数のケースを時間と地域との同一性から「横浜事件」と総称したたけで、強いてこれらの事件の共通性を求めるならば、それは増大する戦況の不利と国内情勢の不安とのために狂暴化した天皇制警察が、軍国主義的絶対権力を笠に着て、ジャーナリズムの抵抗線に襲いかゝつたという事実の中に見るほかはないであらう。」(美作〈ミマサカ〉太郎「軍国主義とジャーナリズム」『現代ジャーナリズム論』一七三頁)
 複数のケースの中から、とくに編集者関係のケースだけを抜いてその概要を述べると、前述のとおり、『改造』掲載の論文「世界史の動向と日本」の筆禍事件により、ます細川嘉六が、昭和十七年九月十四日警視庁に検挙され、後述の「昭和塾関係」「泊〈トマリ〉事件関係」との繋がりにより、細川の身柄は後横浜に移された。しかるに、これより後、別のケースで同十八年五月十一日に同僚西沢富夫とともに横浜特高警察の手で検挙された満鉄東京支社調査部の平館〈ヒラダテ〉利雄の押収品の中から発見された一枚の写真を手がゝりとして『東京新聞』の政治部記者加藤政治、中央公論社出版部員木村亨、元改造社編集部員相川博の三名が同様横浜特高警察の手により同月二十六日一斉逮捕された。発見された写真とは、細川嘉六が右三名を郷里石川県泊町〈トマリマチ〉に招んだ〈ヨンダ〉ときの記念撮影にすぎず、同特高警察は、一夕かん〔歓〕をつくしたにすぎないこの会食をもあえて共産党再建を議した「泊会談」と呼称している。なおまたすでに検挙された細川嘉六がかつて昭和塾の講師をしたことのある事実をきつかけとして、検挙の手は同塾生関係に伸び、同月、他の同窓四名とともに中央公論社員浅石晴世が、さらに同年十一月には同じく中央公論出版部員和田喜太郎がそれぞれ検挙された。検察当局は、昭和研究会およびその塾が擬装共産主義者の団体であるとの「意識的」妄想に基づき、大規模な共産党再建運動の虚構図をみずから創作して行つたのである。
 ついで、さきに検挙された木村亨、浅石晴世、和田喜太郎(以上、中央公論社)、相川博(改造社)の取調の進行にともない、当局は検挙の触手を以上の人々がかつて職場としていた各出版社の他の編集者の上に伸ばしていつた。そのうえ、既検挙者たる細川、平館、西沢が同時に総合雑誌の有力執筆者でもあつた事実は、当局の事件拡大工作にいつそう好条件を与えたのであろう。昭和十九年一月二十九日早朝を期して、「好ましからぬ」編集者群の一斉検挙がものものしく強行されたのである、かくて、中央公論社関係として、小森田一記〈コモリダ・カズキ〉、畑中繁雄、藤田親昌〈チカマサ〉、青木滋、沢赳の五名。改造社関係として、小林英三郎、若槻繁、青山鉞治、水島治男が投獄され、三月十二日に同じく改造社関係として大森直道が上海で逮捕せられた。さらに同年十一月二十七日には、日本評論社関係として、美作太郎、松本正雄、彦坂武男の三名および岩波書店関係として、藤川覚が一斉検挙された。超えて二十年四月にいたつて、さらに日本評論社関係として、鈴木三男吉〈ミオキチ〉と渡辺潔、岩波書店関係者として小林勇の三名を加えている。ほかに執筆者関係として桜井武雄その他が連座した。「そしてこの弾圧の武器として、悪名高き治安維持法がまたしても担ぎ出されたのであるが、そのための『犯罪』事実をでつち上げるためには、被検挙者を片つ端しから『共産主義者』たらしめる必要があり、その『自認』を強取するための拷問その他言語に絶する人権蹂躙が加えられ、その結果、拷問の末の失神者十三名、負傷者三十二名、その上獄死者二名(中央公論浅石、和田)、保釈後衰弱死者一名を出したのであつた」(美作、前掲書)しかして、被検挙者一同は、なお敗戦後において天皇制裁判により、一斉に有罪の判決を強制されたのである。あたかも、これと前後して、羽仁五郎、三木清、戸坂潤、高倉テル、山田勝次郎、その他の著名、文化人が大量検挙されているばかりか、在満洲在中国評論家の中にも、中西功、具島兼三郎〈グシマ・カネサブロウ〉、石川正義、山村房次〈フサジ〉らが、それぞれ現地において逮捕され、内地において全国的に総ざらいされた被検挙者の中には、岩淵辰雄、帆足計〈ホアシ・ケイ〉らの自由主義者から、ついに吉田茂をまで加えた事実は、今日、周知のとおりである。
 そして、改造社および中央公論社の各社長が、情報局第四部長橋本政実の召び出しを受け、戦時下非常のおり、その経営に好ましからざる点ありとの理由により、両社が「自発的」廃業を強制されたのは、あたかもこの事件取り調中の昭和十九年七月のことであつた。自発的廃業の手を、さらに日本評論社、岩波書店に伸ばそうと、着々準備中、敗戦を迎えて、ことはやんだのである。
 以上、もはや明らかなごとく、とくに太平洋戦争突入から敗戦にいたる末期段階における言論弾圧史の舞台裏には、陸軍省軍務局長、大本営陸・海軍報道部長およびその幕僚、主務官庁とくに情報局および内務省関係官と、さらにこれらと陰に陽に結托せる一連の文化ファシストおよび軍国主義に奔つた〈ハシッタ〉編集者の映像がそこにかなりはつきり浮び上つてくる。
 そして、この鎖国的暗愚政治のじうりん下、久しきにわたつて出版活動を直接、間接に緊縛した関係法令の主なるものは、「治安維持法」「出版法」のほかに、(イ)新聞紙法 (ロ)国家総動員法 (ハ)新聞紙掲載禁止令 (ニ)新聞事業令 (ホ)言論出版集会結社等臨時取締法 (へ)言論集会結社等臨時取締法施行規則 (ト)戦時刑法特別法 (チ)国防防保安法 (リ)軍機保護法 (ヌ)不穏文書取締法 (ル)軍用資源秘密保護法等であつた。かくて戦争中発禁件数は、実に一三〇〇件の多数にのぼつている。

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