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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

なぜ、明治になって村八分が多発するのか

2017-09-05 03:37:23 | コラムと名言

◎なぜ、明治になって村八分が多発するのか

 昨日の続きである。昨日は、谷川健一が(敬称略す)、中村吉治の『日本の村落共同体』(日本評論新社、一九五七)を紹介した文章を紹介した。
 いま机上に、日本評論新社版『日本の村落共同体』(社会科学双書C-4)があるので、本日は、これを紹介してみよう。
 以前、このブログで、ジャパンパブリッシャーズ版の『日本の村落共同体』(一九七七)の最後の部分を紹介したことがあった(二〇一三年九月五日、中村吉治は「封建的なるもの... )。今あいにく、そのジャパンパブリッシャーズ版が手元にないので、日本評論新社版とジャパンパブリッシャーズ版との異同を細かく調べることはできない。しかし、少なくとも、ジャパンパブリッシャーズ版の最後の部分が、日本評論新社版(初版)のそれとは、全く異なる文章であることは間違いない。
 以下に、日本評論新社版『日本の村落共同体』の最終章「第四章 近世の共同体」の最後の節「三 近世村落共同体」の最後の二項を紹介してみたい。

三 近世村落共同体
 商品経済の浸透【略】
 共同体的諸契機の変化【略】
 明治維新と共同体  共同体の分解は、右のような順序をとって、ゆっくりと進められた。それに画期を与えたのは明治維新である。明治維新の変革においては、共同体は法的に制度的にみとめなかった。そして農民の土地私有権を確立した。それは共同体の分解の方向において、封建的土地領有・封建的権力を否定した明治政府の基礎となる。そして、行政的な市町村制をつくった。その村は近世の村をいくつか併合するような整理をしてつくっている。それはすでに近世の村が、不可分の一個体でなかったこと、しかもますます内容的にも共同体がくずれていたことによる可能性と必要性によっている。
 しかし、明治維新の変革は、早熟な面があった。共同体に則していうと、家をつなぐ共同の契機は、一つずつ、順次にくずれていたが、すべてが失われてはいなかった。それにしても、共同体的土地所有を基礎とする封建的土地領有・封建的権力の存続は不可能にまでなってきていたのだが、それ故に政治変革も生じたのだが、すっかり共同性をなくするまでにはなっていなかった。それをともかくも、法的には共同体の否定、土地私有制の確立を遂行して近代国家の体系を整え、近代的資本制生産をうけいれたのであった。
 だから、明治国家の基本線の中に、なおも共同体のいくぶんは現実に残ったし、また制度で妥協も行われた。水利などにおいて容易にかたづけえぬところは多く、それは現実にある家々を共同体的につないでいる。ある部分は、これを行政村落の機構にくみいれたが、それもできない古い水組も残った。山野についてもそうで、土地私有制の強行において、官有・民有と、民有の中にまた共有と私有とを区別確定する方策をとった。前言のような複雑さから、官民有の区別指定も乱暴なものだったが、共同というときの主体の決定も困難だった。それをとか新らしい村とかに指定したのである。ここで、注意されるのは、そうして強行した有・村有から、=集落や村が、一つの権利主体となったことであって、このことが、を旧藩時代の村落共同体のつづきと思いこませる一つの理由になったのである。実際、旧藩の制度村落のもっていた機能をうけついでいる場合もあるが、その旧制度村落の実際は前にみたとおりであるし、また旧藩にいりくんでいた山野を改めて有と指定したものもあったのである。村有などの場合についても同様である。
 かかる中で、土地私有も直ちにすっきりはしなかった。地主と小作と割り切ったのだが、労働の問題も、水・山利用の問題も、何か古いひっかかりが残っている中で、これだけがすっきりできるわけもなかった。のみならず、そういう共同の残りのあるところ経営の集中もむずかしく、小規模な経営がつづき、土地私有の確立とその集積はあっても、経営は集積せずに、地主の周辺に多くの小作人経営がある。そうすると地主小作の間に、本分家的な関係はすっきりとなくならない。
 かくのごとくに、共同体のまったき消失の上に、明治維新が、明治国家が、成ったとはいいがたい。そこで、明治国家の地方行政村落に特殊な性格がついた。市町村制としては、土地私有の確立にもとづく、個体として農民が国家支配の対象単位でそれを地域的な行政区に分けたはずだったが、現実の農民の間に身分関係があったり、共同組織が残っていたりするのだから、この行政村落も、構成単位の性格にひきずられて、すっきり行政的になりきらず、一種の共同体のような性格をおびた。それにはなお、新らしい国家の施策として消防団を組織し学校をつくるというようなことが村単位で行われたこと、そしてそれが村民の労力や費用を多くあてにしている「自治制」であったことなどが、そのまま共同体的性格を失わぬ村単位を、さらに共同体的にする意味もあった。そしてもう一つ。共同体の強い属性として古くは意味があり、その実態が変りつつも、儀礼化した行事・慣習とか、神社・祭などが、その本来の実態から浮いている故に行政村の機能にかたがわりした。村社が、その内部にあった社を集中してつくられたごときものである。そこに祭を中心とする行政村のごとき形ができる。それは合併ができるほどに、もう現実の共同体と関係ないにしても、感覚的には強い。またそれを不要とするほどに共同体の完全解消はなかった。このことがまた、明治の村を、共同体らしくしていった。
 かくて、明治の行政村、またその下部の行政単位としてのが、共同体的な性格をおびてきている。人々が、これらの事実からして、封建的共同体は、かかるものであると考えたのも、あるいは無理がないかもしれない。しかし、それは明治によって変ったところのものである。その転化をみとめずに、封建的性格の残存とみたり、封建的性格をこの延長において解したりするのは誤っている。その一つとして「村八分」というような現象をあげることもできる。緊密な不可分の一体としての共同体では、成員をみだりに増したり減らしたりはできぬ。基本的には独立してきた農民が、感情や行事や祭の面で村意識をもっているようなときに、祭の仲間から除外するというごとき村八分が可能となる。農業をやめさせたり、学校へゆかせなかったりはできない。ところが、そういう行事・慣習の面で感覚的な強さがあるから、村八分は苦痛を与えるのである。これはだから、共同体の崩壊過程においてのみ生じるものである。明治の村などで、もっとも生じやすいものである。それをもって、本来の共同体の性格とみるのは、やはり歴史的・具体的でないのである。
 共同体の「残存」 明治以後の日本において、共同体の「残存」があるといわれていることは、右のごときものである。それは残存ではあるにしても、徳川時代のそれの、そのままの性質が残存しているわけではない。それは明治の国家、近代的資本制生産の育成という基本コースにしたがって、本来そこには失われているはずの共同体を、それにあわせるようにくみかえたものとしての残存である。
 だからこの「残存」をもって、ただちに封建的というのは危険である。共同体というものは、すなわち封建だ、という考えからくる危険である。共同体は、原始にも古代にも中世にも、それぞれの性質で存在する。その中世(日本では中世・近世とわけていう)の共同体を封建的といっているまでである。したがって、近代において、それが日本的な特殊性であるにしても、封建的でない共同体があってもいいわけで、それを強いて封建的といわなくともいいのである。むしろ、封建的という概念内容をくわしく考える労をはぶいて、ただ封建的ということで問題が解決したように思わせる危険もあるとすれば、有害である。それよりも、明治の、またそののちの、日本の資本主義社会の発達の、特殊歴史的性格の中で、それがどのような位置をもつかを、十分に検討すぺきであろう。
 共同体という社会関係は、身分社会であるという本質をもっていた。始源において、それは純粋に現われ、純粋な身分社会である故に、階級的要索はなく、無階級社会ということができた。この始源の共同体の変化にっれて、身分的構成の変化と、その中への階級的要素の成長がみられた。分割土地所有の強化が、所有にもとづく階級差を生ぜしめるので、身分差と階級差とが、からみあいながらの歴史となり、前者の後退と後者の前進が、時代を追ってみられたのであって、近代社会は、身分関係の消失と階級社会としての確立をもって特徴づけられる。そとで、日本の近代化の過程においても、それは現われたが、そこに共同体の残続があったのだから、日本の階級社会に適応するような変化があり、また日本の階級社会が特徴づけられることにもなるのである。そのことは、農村における地主と小作の間に、身分的なつながりの要素を残すとかいうこともさることながら、経営における共同体的つながりが容易になくならず、従って賃銀労働者が農村と結びついて現われ、特殊な資本主義的工場制度をつくりあげたというような面に現われてゆく。地主・小作または資本家・労働者というような階級社会は成立しておりながら、それにくみこまれた共同体的諸性質または共同体的諸性質をくみこんだ階級社会の性質、これが近代日本を特徴づける。そういう特徴をもちながら、明治の歴史があったのである。

 近代化にともなって村落共同体が崩壊したあと、擬制としての村落共同体が、なお残存しているような場合、「村八分」が起きやすい。だからこそ、明治になって「村八分」が多発するのである。――これが中村吉治の捉え方である。これを知って、まず感じたのは、真理というものは、えてして、こういう逆説的な表現をとるのだろうということだった。もうひとつ感じたのは、こうした中村吉治の捉え方は、学級、職場などの集団内で生じる「イジメ」に対しても、応用できるのではないかということであった。

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