礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『共同幻想論』のワクの中で『共同幻想論』を批判した片岡啓治

2017-04-19 04:21:27 | コラムと名言

◎『共同幻想論』のワクの中で『共同幻想論』を批判した片岡啓治

 片岡啓治著『幻想における生』(イザラ書房、一九七〇)から、「6 『共同幻想論』批判」を紹介している。本日はその三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、一行あけて、次のように続く。

 これが、「対幻想」と「共同幻想」の「逆立」の関係について私の了解するところであり、この両者の対立を、いや両者を対立として〈関係〉させそのどちらか一方に他方が吸収され尽してしまわぬようにあらしめているもの、すなわち両者の力動的関係をあらしめているところのものは、つきつめれば、「快楽」と「労働」の緊張的相関であらねばならず、それは幾つかの媒介をへて換言すれば、生体における生と死の両価的運動に帰するといえよう。この両価的動勢あればこそ、〈性対偶〉・〈幻想対〉・〈家族〉は快楽性の極点にむかって引っぱられつつ、たえず排他的に自己完結的に凝集することを求めて、〈社会的共同性〉にむかって対立をかもし、〈社会的共同性〉はたえず〈労働性〉の極点へとむかって引かれつつ、〈労働〉のエトスを〈共同幻想〉として〈幻想対〉を緊縛しこれを自然的基底から引きはなして〈社会的共同性〉に完全に包摂しつくす方向へむかおうとするのである。でありながら、また〈家〉としての〈幻想対〉は労働のエトスとしての〈共同幻想〉をのみこむことによって逆に自己防衛と自己保存をはかり、その位相では〈共同幻想〉は〈対幻想〉としてあらわれ、そのように個々の〈幻想対〉の日常過程にのみこまれることによって〈共同幻想〉は賦活され、その位相では〈対幻想〉を〈共同幻想〉に包摂する形をとりつつ、ふたたび〈社会的共同性〉の存続が保証される。
 すなわち、〈対幻想〉と〈共同幻想〉が力動的関係において相関しあうゆえんであり、ゆえに、そうした力動的相関関係からみるなら、吉本氏のいう「……そういう軸の内部構造と、表現された構造と、三つの軸(〈共同幻想〉と〈対幻想〉と〈自己幻想〉)の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ」という考えは、意図に反して三種の異なる「レンガ」を積みあげたに等しい静態的解釈学におわっている、と私には了解される。それだけの了解をしたうえでならば、本書にのべられた事柄については民俗学、古代史学、あるいは精神病理学等々の立場から、いかようにも別様の解釈がほどこされうることだろう。

 片岡啓治は、こういう形で、吉本隆明の『共同幻想論』を批判した。しかし、「批判」とは言いながら、その用語や発想は、吉本隆明の『共同幻想論』そのままであり、いわば、『共同幻想論』のワクの中で思考し、かつ、これを批判しようとしたのである。これも、吉本思想の「系」と言えるかもしれない。
 さて、当時、吉本隆明の『共同幻想論』や片岡啓治の「『共同幻想論』批判」を読んだ読者は、こうした難解な吉本思想をめぐっての議論を理解しえたのであろうか。他の人は、いざ知らず、自分の経験に照らすと、そうした議論の内容も、そうした議論の持つ意義も、理解できているように「感じた」のである。
 この感覚は、今日でも持続していて、今でも、こうした議論を読むと、理解できているように「感じる」。一方、山本哲士氏が、大著〝吉本隆明と『共同幻想論』〟で展開している議論は、どうも、よく理解できない。これは、どういうわけか。
 それはさておき、片岡啓治は、〈対幻想〉と〈共同幻想〉の両者を媒介するものとして、〈労働〉という概念を提示した。しかし片岡は、〈自己幻想〉と〈対幻想〉の両者を媒介するものは何かという問いを発することなく、当然、その解答も提示することもなかった。
 私見では、今日の日本は、〈自己幻想〉と〈対幻想〉の両者を媒介するものは何かという問いが、非常に重要になってきている。抽象的な議論がしたいわけではない。実を言えば、若者の「非婚化」という情況を心配しているのである。明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2017・4・19(6・10位にかなり珍しいものが)

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