◎昔は六法全書が飯を食つてゐた(山田孝雄)
山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一八回目。本日、紹介するところも、「第六 古事記序文第二段」の一部である。
先にも申しましたやうに、日本の昔の政治といふものは支那流の文章本位の政治ではない、朝廷の御命令でも、またいろいろの国家の政治であらうと、あらゆることがみな口伝へで伝へられて来たのであります。だから推古天皇様の御代まではその帝紀、本辞といふものを口伝〈クデン〉として正しく伝へて来なければ本当の政治は出来ないのであります。言伝へ〈コトヅタエ〉が政治の根本になつてゐたといふ証拠に日本書紀の仁徳天皇様の御代をお読みになれば実例が一つある。菟道稚郎子〈ウジノワキイラツコ〉と仁徳天皇様とが三年間位をお譲り合になつたので、天下のものはどちらへ行つてお裁きを願へばよいか分らなかつた。そこでその虚に乗じて大山守皇子〈オオヤマモリノミコ〉がわが侭をせられた、その中の一つに朝廷直轄の御料地を儂〈ワシ〉の方へ寄越せといはれたことがある。そこで大和の役人がそんなことはないと大鷦鷯尊〈オオサザキノミコト〉へ訴えた、大鷦鷯尊が大和の一切の由来を知つてゐるものは誰かと尋ねたところ、倭直吾子籠〈ヤマトノアタイノアゴコ〉が知つてゐるといふので、では吾子籠を呼べと仰言つた、ところが吾子籠は百済へ使ひに行つてをります、といふのである。それでは仕方がないから呼び戻せと仰せられ、吾子籠が帰つて来た、そこで大鷦鷯尊がお尋ねになつたところ、いやあれは山守のものではない、昔から天皇の直轄の御料地でございます、とかういふことを申上げたので、それは間違ひだといふので取消されたといふことがあります。昔の政治はさふいふものであつた。今日では六法全書がありますが、昔は六法全書が飯を食つてゐたのであります。この飯を食ふ六法全書に聞かないと政治が出来ない、それが即ち語部〈カタリベ〉であります。推古天皇様の御代から書物をもつて政治をせられるやうなつたので御飯を食ふ六法全書は御用がなくなつた。そこで推古天皇様より以前の事柄に関しては言伝へがなければ本来のことがわからぬので、天武天皇様がそれを書き残しておかないとあとで大変なことが起る、なぜ書き残しておかなければ大変なことが起るか、間違があらうがなからうが、とにかく推古天皇様から天武天皇様まで六七十年、七十年も経てばもう古老は犬分減つてをります、これがもう二十年もすればみな死んでしまふ、さうなつて来ると何を聞かうにもわからない、私共は徳川時代のことを少しばがり知つてをりますが、明洽になつて生れた者ですから無論知らなかつた、ところが私の父が明治初年に丁度〈チョウド〉四十頃でした、維新時代であります、そこで私はその話を聞いておかなくちやいかぬといふので暇さへあれば昔話を聞いておきました、それで少しは知つてをるのであります、それでなければわからない。これは別に天武天皇様の真似をしたわけではない。昔の口伝へ政治といふものはさういふものでありまして、なかなか書物ではわからぬのであります。だから変なことを申して少し脱線する気味はありますが、私共は徳川時代の歴史家の書いてゐるものをみると歯掻くて〈ハガユクテ〉仕方がない、いゝ加減なものであります。大学で徳川史を講義するのに書いたものだけでするからわからぬ。私は徳川時代の色んな文献をみるけれども御老中〈ゴロウジュウ〉の辞令といふものがない。昔は大臣を任命せられるときに儀式を整へて任命せられる。辞令よりもつと重いのであります。徳川時代に辞令を貰ふのは将軍に直接ものを言へない低い人達であつて、老中を任命するのにはそんなものは不要であつた。それがわからないで徳川時代の歴史を論じてをる歴史家は困つたものであります。さういふやうなわけで、時世が変つてしまふとその時世の年寄連中がゐなくなると昔の姿がわからなくなるのは当然であります。だからいまのうちに書き残しておかないと大変なことが起る、これは私にはよくわかるのであります。〈二三六~二三八ページ〉
「昔は六法全書が飯を食つてゐた」というのは、山田独自の言い回しであって、六法全書の役割を果すような人間が国によって確保されていたという意味である。老婆心から注記しておく。
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