◎原の辞意を自分が容れていたら……(山県有朋)
岡義武著の『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書、一九五八)の内容を、ところどころ紹介している。本日はその四回目。「九 晩年とその死」のうち、昨日、紹介した部分のすぐあとのところを紹介する。
皇太子帰国の直後、山県は田中〔義一〕前陸相にむかって、原〔敬〕は摂政設置後辞職するつもりと思うが、それでは甚だ困るといい、その留任を希望した。原は、このことを田中からきいて笑いながら、自分も疲れたから何時辞めてもよい。ただ、摂政設置の問題を控え、また近くワシントン会議がひらかれることでもあり、自分としても無責任な進退はしないと語った。そして、ついで山県と会談して、同趣旨のことを述べたが、山県はこれに対して、宮中関係の問題をはじめ大問題を控えている折柄〈オリカラ〉、引つづき政局を担当することをきいて自分は安心した、と答えた。なお、この年〔一九二一〕の秋頃、山県は新椿山荘〔麹町五番町〕で病臥していたが、彼は警視庁が社会主義者の家宅捜索を行って押収した書類をまとめたものを杉山茂丸〈スギヤマ・シゲマル〉に示して、自分はこれだけは是非ともと思い、医師、看護婦の制止をきかずに目を通した。この中には、一度読んだら忘れようとしても忘れられぬことが沢山書いてある。自分は軍服を着て彼らと戦って死ねないのが残念でならない、と昂奮して語った、という⑾。
一一月三日には、山県は東京から小田原の古稀庵に帰った。そして、その夜から発熱して床についた。翌四日の夜、原首相は関西に赴こうとして東京駅にいたり、原内閣下の政治的腐敗を憤る一青年〔中岡艮一〕のために駅頭で刺殺された。病床でこの凶報をきいた山県は、原の辞意を自分が容れていたら、このようなことにならなかったろうにと痛嘆したという。そして、翌日に病床を訪れた松本〔剛吉〕にむかって、原は、「政友会の俗論党及び泥棒等に殺されたのだ」といい、原の「勤王家」であることは自分も見抜いていた。実に残念に堪えないといって、涙を流した。〈一九〇~一九一ページ〉
⑾ 杉山、『山県元帥』、五〇五頁。なお、この書物では一二月新椿山荘を訪れたときの事として記されているが、それであれば後述のように一一月三日よりも前のことになる。
原敬首相の暗殺は、一九二一年(大正一〇)一一月四日だった。原首相を刺殺したのは、鉄道省職員の中岡艮一(なかおか・こんいち)であった。同年九月二七日に、安田財閥の安田善次郎が右翼の朝日平吾に刺殺されているが、中岡艮一は、この安田善次郎刺殺事件に刺激を受け、凶行に及んだものとされている。
原首相の死を知った山県は、「原の辞意を自分が容れていたら、このようなことにならなかったろうに」と痛嘆したというが、この言葉は、自分こそが、この国を操っているのだという自信を、はからずして表明したものとなった。
文中、「田中前陸相」とあるのは、原文のまま。ここは、「田中元陸相」とあるべきところである。また、注⑾の「杉山、『山県元帥』」とは、杉山其日庵著『山県元帥』(博文館、一九二五)を指す。其日庵(そのひあん)は、杉山茂丸の戯号。
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