礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本人の悪徳の第一は「うそ」である(オールコック)

2019-04-26 02:04:22 | コラムと名言

◎日本人の悪徳の第一は「うそ」である(オールコック)

 必要があって、イギリスの初代駐日公使オールコックが書いた『大君の都』(岩波文庫、一九六二)を読んでいる。これが、なかなか興味深く、刺激的である。本日は、同書のうちから、日本人の「うそ」について述べているところを紹介してみたい。〔 〕内は翻訳者(山口光朔)による注、《 》内は引用者による注である。

 わたしは、この著者《スラップ氏》の説にまったく賛成であって、日本人の悪徳の第一にこのうそという悪徳をかかげたい。そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう。したがって、日本の商人がどういうものであるかということは、このことから容易に想像できよう。かれら、東洋人のなかではもっとも不正直でずるい。こういうことはひとつの種族全体についてはおろか、ひとつの階級についてすらはっきりとはいえないことのように思えるが、開港場で、とくに貿易の最大の中心地である横浜で、営まれている貿易においてきわめて巧みな計画的な欺瞞【ぎまん】の例がたえないことを見れば、この点については疑う余地はない。絹の梱【こり】を売るときには、いつも外側には同じ品質の束をおき、中側にはきわめて巧妙に織り合わせたもっと質の悪いものをいれてある。樟脳の瓶【かめ】には、上の方にだけ本物がいれてあって、そのほかは米の粉である。油桶の下半分は水である。契約金はすぐにかれらが自分で使うために利用され、臆面もなくとられてしまう。しかし、われわれ〔イギリス〕のなかにも、国内や国外に不正直な商人がいるともいえよう。そして不幸なことに、この事実には論議の余地がない。ハッスル博士と議会の委員会が示した通りだ。自由な自治的な美徳のほまれ高きイギリスでも、ごまかしていない食品を買うことは、むずかしいのではなかろうか。命を守る薬でさえ品質を落とす(それもしばもっとも有害な物をまぜる)ようなことをしていない薬を買うことは、むずかしいのではなかろうか。あるいは表示してある通りの長さの綿布や、きまり通りの分量がはいっているブドウ酒やビールを買うことも、むずかしいのではなかろうか。たしかにこういうことは事実である。そして事実であるだけに悲しいことだ。もっとも文明がすすんだ国においてさえ、商業道徳というものは特別の法律をもっているように思われる。そしておそらくそれよりももっと一般的にいえることは、もっとすすんだ国においてさえも、その道徳的規準は完全な真実とか正直とかからはほどとおいということであろう。したがって樟脳の代わりに米の粉を売る日本人も、唐がらしの代わりに鉛丹〈エンタン〉を売ったり、パンの代わりに明礬【みようばん】と骨粉〈コップン〉をまぜたものを売るイギリスの商人も、ただ程度のちがいだけだということは残念ながらわれわれも認めざるをえない。とはいえ、だますことの巧妙さと一般性にかけては、日本人ははるかにわれわれにまさっている、とわたしは考える。うそということにかんしては、そのことばの十分な意味なり、そのやり方がどの程度にまで完全なものになっているかということを知るためには、役人【ヤクニン】、すなわち日本の官吏と多少つき合ってみる必要がある。いかなる代償を払っても――愛をもってしても、金にものをいわせても――真実をえることができない。一国がこういう特徴をもちつづけているかぎりは、本当の進歩というものは不可能だ、とわたしは信ずる。真の文明とは、必然的に進歩的なものなのである。
 なんらかの社会的なきずなが存在するためには、結局ことばや誓いというものをある程度信頼しなければならない。ところが、あらゆる階級の日本人のあいだでは、これ以上度をこせば社会的きずなというものが存在できなくなるほど、まったく真実というものが無視されている。【中略】まっ赤なうそがばれて非難されることは、日本人や中国人にとっては、恥にも不面目にもならない。見つけられることにたいするスバルタ的な恥辱感さえないのである。しかし信頼ということがこれほどわずかしかなく、真実を話すべき義務というものが認められていないところで、社会的な生活におけるさまざまの関係がどのように維持されているかということは理解しがたい。司法上のことでは、この問題は拷問【ごうもん】制度で解決される。拷問で真実をしぼりとるか、強情な者を殺してしまうかどちらかである。しかし他のことにおいては、人間同士の通常のやりとりのすべてにおいて仕事を営むに必要と思われる程度に真実をえるためには、明らかに拷問以外のもうすこし残忍でない手段を使って真実をえなければならない。しかし、もしベーコンがさらにのベているように、「真実を探究するとは真実を口説くことだ」とすれば、日本ではそういう求愛が多いにちがいない。そして、「真実を信ずること、すなわち、これを楽しむこと」は驚くほどすくないにちがいない。この極致こそ「人性の至上の善」だとすれば、わが親愛なる日本人はあわれにもそれが欠けているのではなかろうか。このように真実が必要とされているからこそ、最良の政策として、事態を多少ともよくするためには、かれらに利害のあるような具合に真実を示唆し強制しなければならないのである。〈下巻一二七~一三〇ページ〉

 オールコックは、幕末の日本人、特に商人や役人について、このようなことを言っている。これを読んで、幕末に日本にやってきたヨーロッパ人にとって、日本人というのは、そんなふうに見えたのか、とビックリしたいところである。ところが、ビックリするわけにはいかない。
 なぜか。言うまでもない。ここ数年、企業、官僚、政治家などの間に、「うそ」が蔓延しているからである(いちいち例は挙げない)。幕末期から今日までずっとそうだったとは言わない。少なくともここ数年は、日本人の道徳的レベルが、幕末期まで退行してしまった感がある。
「あらゆる階級の日本人のあいだでは、これ以上度をこせば社会的きずなというものが存在できなくなるほど、まったく真実というものが無視されている。」――このように言われて、反論できる企業、官僚、政治家があれば、堂々と反論してもらいたいものだ。
 さて、オールコックの文章を読んで、ひとつ鋭いと思ったのは、うそが横行している困難な状況において、司法が採用している解決策は「拷問制度」だと述べていることだ。「うそ」と「拷問」とをセットで捉えているところが、鋭く、かつユニークである。たしかに、警察というところは、常に、容疑者は「うそ」をついていると考えており、したがって、容疑者に真実を言わせる方法は、拷問以外にはないと信じている。この点に関しては、「幕末期から今日までずっとそうだった」と言えるかもしれない。

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