礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

偽経「血盆経」と血の池地獄

2015-11-13 04:32:53 | コラムと名言

◎偽経「血盆経」と血の池地獄

 昨日の続きである。中山太郎の論文「血の池地獄」(初出、一九二九)を紹介している。この論文は、全部で六節からなるが、本日、紹介するのは、「二」である。引用は、『日本民俗学 風俗篇』(大岡山書店、一九三〇)から。

  二
 爾来、私は諸国の地誌類を読むことに、興味を有つやうになり、古くは奈良朝に編纂された風土記類から、新しいものでは、国誌、県・郡・村誌まで、片ツ端〈カタッパシ〉から読みまくつたものである。すると、「利根川図志」(巻二)に、左の如き記事が載せてあるのを発見した。
《御寮法性墓
 青山村(中山曰。下総国東葛飾郡我孫子〈アビコ〉町の大字)の東〔、〕都部村〈イチブブムラ〉大龍山正泉寺(禅宗、本尊地蔵菩薩)の後に在り。五輪の石塔なり、法性〈ホウショウ〉は最明寺時頼〔北条時頼〕の女〈ムスメ〉にて、この寺を建立し、命け〈ナヅケ〉て法性寺といふ。然るに、一夜〈アルヨ〉この尼、住持の夢に現はれて、在世の栄華の為に、手賀沼の毒蛇となり、十六の角〈ツノ〉を戴き、八万四千の鱗〈ウロコ〉を生じ、三熱の苦を受くる由〈ヨシ〉をいひ、血盆経〈ケツボンキョウ〉一千巻を読誦〈ドクジュ〉して、苦悩を救はんことを請ふ。覚めて後地蔵講会〈コウエ〉を修せ〈シュセ〉しかば、夢に八旬余の老僧来り、明朝手賀沼に行き見るべし、龍宮に蔵する血盆経を汝に与へむ、墜獄〈ダゴク〉の苦を免れむと思ふ女人は、此の経を受持すべしとて、乃ち夢は覚めにけり。これ地蔵尊の化身〈ケシン〉なりとぞ。さて明旦〈ミョウタン〉手賀沼に詣りし〈イタリシ〉に、水〔、〕卒に〈ニワカニ〉動騰し、白蓮華〈ビャクレンゲ〉一茎湧出し、中に血盆経一部あり。乃ち村を一部〔都部〕と命け、山を大龍と命け、寺号を正泉と改め、題して日本最初女人成仏血盆経出現第一道場といふ(原註。血盆経縁起取意)。》
 私は此の記事によつて、遅蒔きながら、我国に「血盆経」といふものが、在るを知つたので、早速、それを見たところが、奥書に、
《それ女人罪の深きこと、数多の諸経論に説かせ給へり。中にも血盆地獄とて、俗にいふ血ノ池の地獄は、女人ばかり堕つるなり、貴も賤も、一度女身を受くる輩〈ヤカラ〉は、地神水神〈チジン・スイジン〉を汚しまゐらす罪咎〈ザキュウ〉により、必す此の地獄に落ちて、一日に三度、血を食さしめられ、並に鉄棒で打たれ、苦患〈クゲン〉を受くること限りなし。然れども、此の経陀羅尼〈キョウダラニ〉を信受し、読誦する人は、此の地獄を免れて、天上に生ず(中略)。この陀羅尼は、下総国相馬郡法性寺住持中興和尚、尼将軍の夢想によつて、龍宮界より得たる秘咒〈ヒジュ〉なり云々。》
 と記してあつたので、大体、此の経の由来も、血ノ池地獄の見当もついたのである。然るにそれから間もなく、今は故人となつた学友奥村繁次郎氏(下谷〈シタヤ〉芋繁とて、焼芋を売りながら苦学した篤志の人であつた)に会ひ、「血盆経」のことを話すと、氏は支那の「血盆経」を所蔵してゐるとて、私に貸してた。私はそれと我国のと対照して見たが、殆んど同じ(僅に〈ワズカニ〉二字だけ相違してゐた)あつて、彼〔支那のもの〕が本で、これ〔日本のもの〕が末であることも判然した。.
 かうした事情で、私は朧げ〈オボロゲ〉ながらも、我国の血ノ池地獄に就いて、
一、我国の血盆経は、支那において、偽作されたものが、何人かによつで、将来されたに相違ないこと。
二、血盆経の将来と同時に、何か支那に血ノ池の俗信が、存してゐたのが輸入された事。
三、手賀沼から、此の経文が出現したとあるのは、縁起に付きものゝ附会であつて、支那からの将来を、神秘化したものであること。
四、血盆経の将来は、早くとも室町期の中葉頃であること。
 等を知つたので、猶ほ機会のあるごとに、此の問題に関して注意を払つて来た。

 下総国東葛飾郡我孫子の正泉寺が、「日本最初女人成仏血盆経出現第一道場」と称していたこと、しかし、「血盆経」は中国で作られ、日本に伝わった偽経であり、血ノ池地獄の俗信も、この偽経に由来すること、などを述べている。
 中山太郎は、芋繁こと奥村繁次郎から中国の「血盆経」を借り受けて、日本の「血盆経」と比較し、我孫子の正泉寺に伝わる伝承が「附会」(こじつけ)であるという結論に達したのである。
 中山太郎の論文と言うのは、これに限らず、結論にいたる紆余曲折を、時系列に従い、個人的な回想などもまじえながら、記述しているものが多い。
 こういうスタイルは、いわゆる学術論文というよりは、学問風のエッセイともいうべきであろう。こういうスタイルを嫌う研究者や編集者は少なくないと思うが、少なくとも私は、こういう中山太郎のスタイルを愛してきたし、また、その影響を受けてきたと自認している。

*このブログの人気記事 2015・11・13(9位に珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中山太郎の論文「血の池地獄... | トップ | 「血汚池」で苦しむ男女(重... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事