礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「血汚池」で苦しむ男女(重刊玉暦至宝鈔)

2015-11-14 02:14:16 | コラムと名言

◎「血汚池」で苦しむ男女(重刊玉暦至宝鈔)

 中山太郎の論文「血の池地獄」(初出、一九二九)を紹介している。この論文は、全部で六節からなるが、本日、紹介するのは、「三」と「四」である。引用は、『日本民俗学 風俗篇』(大岡山書店、一九三〇)から。

  
 然るに或時、立山講社の人の談として、仄聞〈ソクブン〉するところによると、越中の立山には、昔から地獄谷(中山曰。立山の地獄は「今昔物語」に見えてゐるから、平安期に既に存してゐたのである)といふがあるが、産褥〈サンジョク〉で死んだ婦人の冥福を祈るために、由縁の者は、必ず「血盆経」一部づゝを、此の谷へ投棄する。それが幾十年となくつゞき、幾万人となく投げるので、殆んどその谷が、経冊で理まるばかりだとのことであつた。
 立山は、大昔から怪奇の説話に富んだところで、殊に誰でも知つてゐるのは、幽霊宿の一件であるが、江戸期の随筆類を見ると、立山へ往けば、死んだ女房に会へるといふので、執着の深い男が、出かけて往つて幽霊に会ひ、その女を無理に連れて来て後妻にしたが、それは幽霊宿の、奸策であるなどゝ載せてあり、かなり不気味な話ではあるが、それだけ信用できぬ事が多かつたたのである。従つて血盆経を谷へ投げる話なども、どの程度まで信を措いてよいものか、実際に立山へ往つたことのない私には、迷はざるを得ぬのである。併し斯うした俗信が我が民間に浸染してゐたことだけは、事実であつて、始めは産褥で死んだ婦女は、血ノ池へ堕ちるものと言はれてゐたのが、次に石女〈ウマズメ〉とて、子供を産まぬ者も、これへ堕ちると言はれるやうになり、後には女子である限りは、悉くこゝに往くのだと言はれることゝなり、一般の女性は咸【ミナ】これを信じて、罪の深いのに恐れてゐたのである。そして此の過程――即ち産女、石女、女性へとすゝんで往つた俗信の傾向は、我国の血ノ池地獄を考へる者にとつては、注意しなければならぬ問題なのである。
 私が改めて言ふまでもなく、我国の地獄信仰の普及は、僧恵心〈エシン〉の書いた「往生要集」が大きな力となつてゐるのである。現代的にいへば、此の書がエポツクメーキングとなつてゐるのであるが、勿論、これには血ノ池のことは一行半句も記してない。更に此の書の影響を受けたものと思ふ「宝物集」〈ホウブツシュウ〉にも、「埃嚢抄」〈アイノウショウ〉にも、地獄のことは記してあるが、血ノ池は載せてない。室町期の永享前後に書かれた、「地獄草紙」(今座右にないので明確には云へぬが)にも、此の変相図だけは、無かつたやうに記憶してゐる。
 それが、同じ室町期の末頃に出来たと思ふ「目蓮〈モクレン〉尊者地獄めぐり」には、明白に血ノ池地獄が記してあるが、それでもまだ、産婦のみがこゝに堕ちて、石女や一般の女性が往くとは書いてない。然るに、江戸期に作られた「血ノ池地獄和讃」になると、一般の女性は、悉く〈コトゴトク〉月水のために地神水神を汚すので、堕ちると歌つてゐる。誠に、考証としては、頼みすくないことではあるが、血ノ池獄は室町期に、支那の影響を受けて宣伝されたものであらうと考へつゞけてゐた。併し支那の文献に就いては、何等知るところがなかつたのである。
  
 かうして又もや二三年を経るうちに、或日、神田の山本書店で入手した「重刊玉暦至宝鈔」〈ジュウカンギョクレキシホウショウ〉と題する、極めて粗末な石印本を読むと、その「十殿条款」の部に我国の血ノ池の原拠と思はれる記事を発見した。左にこれを摘録する。
《血汚池(中略)世人誤聴僧尼之説、以為婦人生産有難、死後入此汚池、謬之甚矣、凡坤道生育、係属応得之事、即難産累亡、均不罪其汚穢、発入此池、若生産末過二十日、輙身近井竈、洗滌穢衣、高処掛晒者、罪帰家長三分、本婦罪坐七分、応交汚血浴血、又陽世神前仏後、不忌日辰、如五月十四、十五日夜、八月初三、十月初等日、男婦犯禁交媾、除神降悪疾暴亡、遍受諸獄苦満外、永浸此池、又男女好宰殺、血濺厨竈廟堂、及経書字紙祭器之上者、亦令遍受諸獄苦満外、永浸此池、如陽世親属立願、代為戒殺放生、数足日、斎供神仏、礼拝血汚経懺、方可超脱云々。》
 中山曰。同書「図像篇」に、「血汚池、不孝翁姑、不敬尊長、不顧神前仏後不忌日辰、男婦交媾者永浸此池」と題して、「好色、陰険、窩娼、貪酷、遊嬉、局賭、咒誼」等の八種の男女が、血汚池にて苦患する図が載せてある)。
 私の見た「至宝鈔」は、著者の名も、刊行の年も記してないほどのもので(察するに明時代のものと思ふが論拠はない)、典故とするには、甚だ心元ない俗書(我国で云へば目蓮地獄めぐりの類〈タグイ〉であるかも知れぬ)ではあるが、これ以外に何事も知らぬ私としては、兎に角〈トニカク〉これによつて、説を試みるより外〈ホカ〉に、致し方がないのである。そして是に拠ると、支那の血ノ池は、我国のとは全く趣きを異にし、婦女が産褥で死んだのは、罪でも咎〈トガ〉でもなく、従つてこれが為めに、堕獄するこどは無いのであるが、その代り、
一、分娩して二十日を過ぎぬ者が、井神竈神を汚したり。
二、穢衣を洗つて高処に掛けたりすると、その罪の三分が主人に帰し、七分が本婦に課されるとは、如何にも支那式の説き方であつて面白い。
三、更に或る限られた日に、不浄を行ふもの。
四、男女とも殺生を好んで、血を厨竈、廟堂、経書、字紙、祭器等に注ぐ濺ぐ〈ソソグ〉もの(此外に図像篇にある八種の男女)だけが、血ノ池に浸され〈ヒタサレ〉て、苦患を受ける事になつてゐる。
 殊に注意すぺきことは、支那の血ノ池は、男女が均等に堕つるといふ点である。経書(こゝでは外典の意)、字紙に血をかけたり、男女とも血ノ池に浸るとは、よく支那の国民性を現したものであつて、此の罪障を消すぺく用ゐられた「血汚経」(恐らく血盆経の先をなしたものと思ふ)なるものが、支那で偽作されたものであることが、知られるのである。
 支那における地獄思想の発達が、どんなものであつたかは、寡聞の私は、遂に何事も知る所が無いのである。それで、此の事を、先輩の長谷川天渓氏に尋ねしに、氏は、支那の地獄思想を考へるには、景教【ネストリアン】の影響を閑却してはならぬ。印度に起つた地獄の思想は、欧羅巴〈ヨーロッパ〉に入つてクリスト教に結びつき、それが又た景教の教義となつて、支那へ(勿諭、支那へはそれ以前に仏教の地獄思想が入つてゐたことは、言ふまでもない)持ち込まれたことを注意せねばならぬ。ダンテの神曲に現はれた地獄の思想に、仏教味の多いことは、此の交渉を、証明してゐるものであるとのことであつた。
 而して長谷川氏のお話は、直に、我国の血ノ池地獄の上にも、篏当する〔あてはめる〕ことが出来ようと思ふ。即ち我国の血ノ池なるものは、支那の血汚池に源流を発してゐて、これが我国に輸入され、我国固有の血忌み――殊に女子の月水を忌んだ俗信と附会して、遂に血ノ池地獄なるものを、完成したものであると信ずるからである。
 何となれば、仏教に於ては、必ずしも月水を不浄として忌んではゐなかったからである。その文献は、「台記」(藤原頼長の日記)久安四年三月六日の条に、「高野精進云々。但有月事之女忌否、未知先例」と載せ、更に「山槐記」(藤原忠親の日記)仁安二年四月九日の条には、「仏経月水等他屋不可憚」と記してある。但し仏説の何にあるかは、お恥しい次第であるが、私は知らぬのである。

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