◎牧野富太郎はどのように英語力をつけたのか
牧野富太郎は、その『自叙伝』の中で、郷里の佐川〈サカワ〉で二人の先生から英語を学んだと述べている。しかし、その時期、学校名などについては触れていない。
インターネットを検索しているうちに、高知大学の村端五郎〈ムラハタ・ゴロウ〉さんに、「牧野富太郎と明治前期の佐川村における英学」(四国英語教育学会『紀要』第二三号、二〇〇三)という論文があることに気づき、国会図書館に赴いて閲覧してきた。
きわめて重厚な論文であり、その内容をすべて紹介することはできない。しかし、導入の部分、および、「名教館」〈メイコウカン〉について述べている部分を紹介させていただくことにしよう。
本論の目的は、植物学者として世界的に高名な牧野富太郎(以下、牧野と呼ぶ)と佐川村(現佐川町)における明治前期の英学との接点を探りながら英学者としての牧野を検討することである。牧野は文久2(1862)年、高知県高岡郡佐川村に生まれ、生家(岸屋)は名字帯刀を許され酒造業と雑貨商を営む裕福な商家であった。幼少で父母を失い祖母の手で養育され、生来植物を好み裏山で草木を友として育った。昭和32(1957)年、95歳で没するまで新種の植物に我が国で初めて学名を付して発表するなど、新種新変種の発見は約2,500種にも及ぶという偉業を成し遂げている。牧野は65歳で東京大学より理学博士の学位を受け、またその著作物や業績により朝日文化賞など数々の賞を受賞しているが、僅か数年足らずの正規の学校教育しか受けることなく生涯独学の学徒を貫いたことは周知の通りである。
一方、牧野は数多くの新属新種を論文の形で発表しているが、その記載はすべて英文であったこと(小林1891,p.27)、そして個人蔵としては稀に見る膨大な量の洋書、2919タイトル・7044点(『牧野文庫蔵書目録(洋書の部)』1980)、を所有していたことはあまり知られていない。生涯独学を貫いた牧野は、一体どのように英語力をつけたのであろうか。佐川村に英学が導入されたのは、どのような経緯で、誰がどのような教科書を使って英語を教授していたのであろうか、そして牧野はそこでどのように英語を学んだのであろうか。牧野の学問の原点とされる佐川村で英学の歴史、特に明治前期の佐川英学史を検討し、牧野の英語力の源泉を探るのが本論のねらいである。
以上が、論文の導入部分である。一〇行ほど飛ばして、「名教館」について述べているところを引用する。
佐川における英学の起源と発展は、郷校である名教館の歩みと深く関わってきた。元禄8(1965)年、4代深尾重方は、儒学者江田成章や谷泰山を招いて家塾を開き、家臣たちの勉学の便を図るが、国主山内氏から蟄居〈チッキョ〉を命ぜられ中断となる。しかし安永元(1772)年、6代重澄は家塾を再興して「名教館」と名付け、山本日下(仙蔵)らを教授者とした。名教館の誕生である。そして、享和2(1802)年、7代繁寛はこれを拡充して佐川領内の「郷校」とした。9代重教は天保元(1830)年、長州明倫館に模し校舎を改築し、さらに規模を拡張して文武の道を高揚した。
明治に入ると、明治4(1871)年、廃藩置県により名教館は一旦休館となるが、翌年、青年有志らが学業の中断を補うため義校・名教義塾(上村1912,p.183)を開いた。高知から2名の英学教師、長尾長と矢野矢を招いて特に英学教育を重視した。
牧野富太郎の『自叙伝』に出てきた「名教館」が、由緒ある「郷校」であったこと、一八七一年(明治四)に休館となり、一八七二年(明治五)に「名教義塾」が開かれたことなどがわかる。
では、牧野富太郎が英語を学んだのは、どの時点からだったのか。もう一度、村端論文を引用しよう。
明治前期の佐川における英学は、第一期:名教義塾での英学(明治6年~)と第二期:私立・佐川英学会での英学(明治19年~)の2期に区分することができる。堀見(1912)によれば、佐川に英学が勃興したのは明治6年の頃である(p.26)。それは廃藩置県により名教館が休館となり、吉川貞利や和田義順らが学業の中断を補うために名教義塾を開塾した時期にあたる。それ以前に英学を修めた佐川出身者に中村重就や土方寧、広井勇、井上屯はいるが、彼らは東京在住の者で、また、西村躍や保木利用、深尾重城、堀見熈助は、西洋医学だけではなく英国人による英学教育も行っていた高知吸江〈ギュウコウ〉病院附属藩立医学校で英学を修めた者である(堀見1912,p.25)。
牧野はやはりこの時期に英学を始めたと自叙伝などで述べているので、牧野が英学を修めたのは名教館ではなく名教義塾であったとするのが正確であろう。明治6年11月時の生徒名簿(1級~8級が42名、初等1級~5級が35名、計779の中に8級生の当時満11歳の牧野の名も見出すことができる(堀見1912,pp.26-28)。
ということで、牧野は、一八七三年(明治六)には、すでに英語を学び始めていたことがわかる。ちなみに、牧野が小学校に入学したのは一八七四年(明治七)で、退学したのは一八七六年(明治九)ごろだったという。
『自叙伝』で牧野は、「嫌になって退学した」と述べている。牧野にとっては、小学校の授業のレベルが低すぎ、そのために「嫌になった」のではないだろうか。
村端論文は、このあとも緻密な考証を重ねてゆくが、紹介はとりあえずここまで。なお、村端論文が依拠している文献の一部を、以下に紹介しておく(礫川はいずれも未見)。
〇牧野富太郎「佐川と学術の関係」『霧生関』第二五号、佐川史談会(一九一一)
〇牧野富太郎「故北川長先生」『霧生関』第二六号、佐川史談会(一九一二)
〇上村信誠「北川長先生」『霧生関』第二六号、佐川史談会(一九一二)
〇堀見熈助「佐川に於ける英学の起源」『霧生関』第二六号、佐川史談会(一九一二)
〇牧野富太郎『我が思い出(遺稿)』北隆館(一九五八)
〇小林義雄「牧野富太郎翁を偲ぶ」『自然と植物』第一五巻第一四号、ニューサイエンス社(一八九一)
今日の名言 2012・10・19
◎淵に臨みて魚を羨むは、退いて網を結ぶに如かず
『漢書』董仲舒伝にある言葉。淵に立って魚を得たいと願うよりは、家に帰ってそれを獲るための網を結ったほうがよいという意味。牧野富太郎は、少年の頃、この言葉を教えられて感心し、「結網」をみずからの号としたという。谷中にある牧野の墓碑には、「結網学人 牧野富太郎」とある。
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