礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

血ノ池地獄の産婦と流れ潅頂

2015-11-15 07:44:24 | コラムと名言

◎血ノ池地獄の産婦と流れ潅頂

 数回にわたって、中山太郎の論文「血の池地獄」(初出、一九二九)を紹介してきたが、本日は、その最後。本日、紹介するのは、「五」と「六」である。引用は、『日本民俗学 風俗篇』(大岡山書店、一九三〇)から。

  
それでは、斯うした血ノ池地獄の思想が、我国の民間信仰に、如何なる影響を与へてゐるかと云ふに、これに就いては、記述すべき、幾多の問題が残されてゐる。その中で主なるものを挙げると、
→、供養〈クヨウ〉の方法に、特殊の民俗が行はれたこと。
二、兵乱の有無を占ふ俗信のあつたこと。
三、罪障〈ザイショウ〉深き者の証拠としたこと。
四、地獄の実在を信じたこと。
五、地名の起源となつたこと。
 私は是等に就いて、簡単にその例を示すとする。
 一は、我国の津々浦々にまで行はれたものであるが、こゝには煩を避けて、私の郷里である下野国足利地方に行はれたものを記すが、難産で死んだ女があると、流れ潅頂〈ナガレカンジョウ〉と称して、二尺四方ほどの麻布【サヨミ】の中央へ、墨で南無阿弥陀仏と書き、それを小川の辺りへ杭を打つて張り、傍へ小さい柄杓を附けて置く。死んだ産婦は、血ノ池地獄へ堕ち、毎日苦しめられてゐるが、此の麻布へ、絶えず水をかけて遣り〈ヤリ〉、布に穴があくと、それと同時に、産婦は苦患〈クゲン〉から免れるとて、通行の人々は誰彼となく、称名〈ショウミョウ〉しつゝ、柄杓で水をかけるのである。私の子供の時分にはよく見かけたもので、冬になつて小川の水が涸れると、施主が、四斗樽〈シトダル〉へ、水のきれぬやうに汲み込んで置いたものである。東北地方に行はれる、後生車〈ゴショウグルマ〉の由来も、此の土俗と交渉あるものと考へてゐるが、それを書き出すと長くなるので省略する。
 二は、伊勢国河芸郡〈カワゲグン〉稲生村〈イノウムラ〉大字稲生の稲生神社の境内に、弘法大師の阿伽ノ井といふのがある。此の池の水が血色に変ずるので、血ノ池とも称してゐるが、血に変るときは、天下に兵乱があるとて占ひとする(勢陽五鈴遺響巻二)。
 尾張国知多郡野間大御堂は、源義朝〈ミナモト・ノ・ヨシトモ〉が最期を遂げたところであるが、境内に、義朝の首洗池といふのがある。これを一に血ノ池とも称してゐる。天下に兵乱あれば、池水が血と変ると伝へてゐる(一話一語巻六)。
 三は、嘉永六年五月に、藤沢の遊行上人が、江戸へ来て、浅草日輪寺に留錫〈リュウシャク〉し、六十万人決定往生〈ケツジョウオウジョウ〉のお札を、諸人に施与〈セヨ〉したことがある。或日、一名の婦人が来て、上人にお札を請うたところ、上人の言ふことには、汝懺悔すれば、お札を遣す〈ツカワス〉べしとて、手洗水を申しつけ、その婦人が手を洗ひしに、忽ちその水が血と変じてしまつた。この婦人は、親の代より、堕胎む業とし、罪障深きものであつた。世人この事を聞き、かゝる女こそ、血ノ池地獄へ堕ちるならんと取沙汰した(筆の熊手)。
 西鶴の「好色一代女」(巻六)夜発付声の条に、
《一生の間種々の譃調せしを、想ひ出して観念の窓より覗けば、蓮の葉笠を着けたるやうなる、小児等の面影、腰より下は血に染みて、九十五六ほど立並び、声のあやぎれもなく、おはりよおはりよと泣きぬ。是かや聞伝へ孕女【ウブメ】なるべしと、気を留めて見しうちに、酷い母様と各々恨み申すにぞ、扨は〈サテハ〉昔血荒をせし親なし子かと悲し云々。》
 とあるのも、血ノ池地獄の信仰を、基調として考ふべきことである。
 更に奇抜なものは、上野〈コウズケ〉沼田町(この地方には古く堕胎や、生児圧殺が猖ん〈サカン〉に行はれた)の産土【ウブスナ】神社の拝殿に、産婆が嬰児〈エイジ〉を圧殺し、嬰児は極樂へ、産婆は血ノ池地獄へ、堕ちるところの額が掛けて(今は見せぬさうである)あつた由である(橋浦泰雄氏談)。これなども罪障深き者の一例として、挙げることが出来ようと思ふ。
 四は、各地方に、血ノ池地獄と称するものがあり、これの実在を信じたことであるが、此の例は余りに多く存してゐて、その地名を挙げるだけでも容易でない。今は想ひ出すものゝみを記すにとゞめる。相模国元箱根駒ケ岳の北に、死出ノ山と云ふのがあり、此の山の麓〈フモト〉に、血ノ池地獄と称する、方十間〈ホウ・ジッケン〉ほどの池がある(新編相模風土記稿)。信州浅間山の南麓〈ナンロク〉に、血ノ池といふ所が四ケ所ある、水は凝つて血の如くであるが、その東方に、弥陀の浄土といふ温泉がある(四隣譚叢巻四)。磐城国刈田郡宮村大字宮に、金峯山龍王寺といふがある。此の境内に、血ノ池とて、紅の水の池がある(封内風土記巻七)。
 越中の立山にも、血ノ池地獄がある。
《血ノ池に手を浸せ〈ヒタセ〉ば、赤く膚〈ハダ〉へ染て、容易に脱せず、池熱湯にして余程あつく、耐へがたきほどの事なり。池より少し上に、三途川といふ所あり(中略)。こゝにある姥〈ウバ〉(中山曰。脱衣婆〈ダツエバ〉)の像は甚だ異り、毛髪動く如く、眼睛〈ガンセイ〉いけるが如し、恐ろししきこといふばかりな云々。》
と津村淙庵の「譚海」(巻十)に載せてある。
此の外に、奥州の恐山、九州別府の血ノ池地獄などは、有名であるだけに、誰でも知つてゐるので省筆する。
 五は、讃岐の屋島寺の本堂の東に、血ノ池がある。一に瑠璃宝池ともいつてゐる。源平合戦のとき、兵戈の血を洗つたところで、水が血ノ色をしてゐるので名づけた(讃州府志巻五)。米沢市小国町字大瀧に百子沼とてある。そのうち、血ノ池は、後醍醐帝の期に、日野資朝が佐渡にて誅せられ、その血を以て紙を浸し、それを此の池に投じた者が、あつたためだと伝へられてゐる(米沢地名選)。
  
 こゝまで一気に書いて来たが、余りに退屈したので、隣り町の仏書専門の森江書店へ(店主とは三十年来の知り合ひである)ぶらりと遊びに往き、店頭にある「広文庫」を見ると、地獄ノ部に「経律異相」巻七を引用して、三十地獄を記し、をの二十八に「高遠王、主治膿血獄云々(出浄度三昧経)」と載せてあるのを発見した。私は直ちに、此の膿血地獄こそ、血ノ池地獄に関係あるべしと思ひついたので、更に「蔵経目録」を検討して見たが、「浄度三昧経」はなく、漸く「仏教大辞典」で、「経律異相」は、梁の僧旻宝唱等の集めたものであるといふことを知つた。そして森江店主の注意で、泉芳師著の「仏教地獄極楽論」を見ると、
『血ノ池地獄は(中略)、起世教の地獄の中の、第六にある膿血地獄といふ地獄の、変化し..た思想と見られないことも無いが、恐らく偶然の一致であつて、両者の間には、何等〈ナンラ〉思想上の影響はあるまいと思はれる』云々。
 とあるのを読んで、流石に〈サスガニ〉餅屋は餅屋だと、感嘆せざるを得なかつた。併し斯うなつて来ると、血ノ池問題は益々紛糾して、
一、「浄度三昧経」と、「起世経」との関係は、如何に見るぺきか。
二、そして、此の二経と、支那の「血汚経」との関係は。
三、「血汚経」と、我国の「血盆経」との関係は、如何に考ふべきか。
 と云ふことになるが、是等の問題は、到底、私の学問などでは企て及ばぬところであるし、それに我国の民間信仰を説く上からは、間接のことにもなるので、餅屋の泉師の研究に侯つとして、私は謹んで引きさがることゝする。
 それにしても、我園に創作された地獄の数も決して紗いものではなかつた。「三河雀」(巻三)に拠ると、
《数々の地獄のうちに、おそろしきは、八万地獄、血ノ池地獄、紺屋地獄、鍛冶地獄、刀活地獄、堅凍地獄、後妻地獄。》
 などと載せてあるが、鍛冶、紺屋、後妻の三地獄が、我国に眼られてゐることは、言ふまでもない。そして、かうした地獄の創作に、血ノ池地獄が大きな示唆を投じたことも、又改めて言ふまでもないことだと考へてゐる(現代仏教第六巻第六十七号所載)。

 中山太郎の論文「血の池地獄」については、その内容についても、また「論文」そのものについても、いろいろコメントしたいことがあるが、これは、数回あとに回すことにし、次回は話題を変える。

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