礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時至ラバ御英断ヲ下シ玉ハルコト

2015-06-09 05:48:17 | コラムと名言

◎時至ラバ御英断ヲ下シ玉ハルコト

 昨日の続きである。清瀬一郎の『秘録東京裁判』を紹介している。清瀬は、下村宏(海南)情報局総裁が、敗戦の数か月前、鈴木貫太郎首相に出した手紙について、次のように述べている。

 情報局総裁の総理あて手紙
 下村海南(名は宏)は昭和二十年四月の鈴木貫太郎内閣に国務大臣、情報局総裁として入閣した。この人はその後昭和三十二年〔一九五七〕に没せられたのであるが、その七年祭にこの内閣の同僚であった左近司政三〈サコンジ・セイゾウ〉氏から
「ここに下村君から終戦の折にもらった鈴木首相あて手紙の写しがある。人の名もあるので、今まで発表しなかったが、今日は、皆さんにお知らせしてよい時期だと思うから、読み上げます」
 と前置きして披露された。私は石井光次郎〈ミツジロウ〉君より、その写しをもらった。この下村の手紙の日付けは、昭和二十年五月二十六日となっているから、連合国空軍の宮城爆撃の翌日にしたためられたものである。その後のポツダム宣言受諾決定や、終戦詔勅の渙発等はそれより二か月も後のことである。

 清瀬は、このように、この手紙が公表された経緯、その「写し」を自分が入手した経緯を語っている。この文章のあと、手紙が引用されるが、これは、昨日のコラムで紹介した。
 手紙を引用したあと、それについて清瀬は、次のようにコメントする。

 この手紙に引退すべしと指名された六人は、いずれも終戦までには引退しなかったが、終戦後、戦犯と指定された近衛公爵と杉山元帥の両人は自殺し、永野、松岡両人は戦争裁判中病死し、東条、島田両人は戦争裁判法廷に出席し、十分に日本の立場も、陛下のお立場もこれを弁明した。
 本進言書が出来たのは上述のごとく昭和二十年の五月末であり、それより、六月、七月の二月を経て、七月二十六日のポツダム宣言、原子爆弾投下、ソ連参戦を経てポツダム宣言趣旨につき、八月九日に天皇の国家統治権を害せざるやを質問、十三日朝ある種の答えを得、八月十四日の御前会議となった。参謀総長、軍令部総長及び陸軍大臣よりは、連合国の返事でははなはだ不安である。かくのごとき不安の状況において戦争を終結するよりは、むしろ死中に活を求め、戦争を継続するにしかざる旨申し上げた。三名の意見閉陳後、陛下は、
「他に意見がないならば、自分が意見をいう。卿ら〈ケイラ〉は自分の意見に賛成してほしい。自分の意見は去る九日の御前会議に示したところと何ら変わらない。先方の回答もあれで満足してよいと思う」
 とおおせられた(この表現は迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉書記官長による)。下村情報局総裁の進言中「惟フニ時至ラバ帝国ノ将来ヲ軫念アラセラレ玉ヒ御英断ヲ下シ玉ハルコト」と言った時が至って、御英断を下したまわったことに相当する。【以下略】

 要するに清瀬は、下村宏情報局総裁が、ある種「先見の明」を持っていたことを強調し、さらに「終戦」への流れを作ったことをも示唆しているのである。
 鈴木貫太郎が首相を引き受けたのは、一九四五年(昭和二〇)の四月である。鈴木は、同年五月末以降は、情報局総裁の「進言」に基づいて、「終戦」への処理を進めていった可能性は十分にある。
 ただこれは、あくまでも、この手紙が「本物」だったと想定しての話である。左近司政三は、下村からこの手紙をもらったのは「終戦の折」だと言っている。また、左近司がそれを公表したのは、下村の七年祭(一九六三年か)の時だった。手紙の信頼性に疑いが残ることは否定できない。これを再引用したコラム子は、「本物」という印象を持った。ただし、印象を持ったというだけで、深い根拠はない。

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