◎夜叉の池の主は大蛇に与えられた娘か
末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第二節「池の名と伝説」を紹介している。本日は、その五回目。
萬農池 【略】
抑池【おさへいけ】 陸前の玉造〈タマツクリ〉郡大崎村〈オオサクムラ〉の抑池にはむかし大蛇がゐた。年々美しい婦人がこの大蛇の為に犠牲になつたが、ある年ちやうどその選に当つた婦人は甚だ明敏な性質であつたので、考へるところがあつて、池畔〈チハン〉へ行つて大蛇に、私はこんどの選に当つたのであるから敢て逃げはしないがその前に一つの願を聞き入れて呉れるかと云つたところ大蛇は承諾したらしい。そこで婦人はたくさんの空瓢と金針を持つて行つて示して云ふには、瓢〈ヒサゴ〉を水中に沈め金針を池上に浮べて呉れゝば私も池に身を投じようと謂ふたので、大蛇はそれを実行しようと思つたが、針は沈むし瓢は浮くし疲労の極に達した大蛇は遂に斃れて仕舞つた。婦人はかくて無事に家に帰るを得た。
その家の父母兄弟の喜んだことは云ふまでもなく、且つ大蛇を池の畔〈ホトリ〉に埋めて寺を建て祭ることにしてやつた。この婦人の行ひがつひに永年の犠牲を抑止するに至つたから、後世の人々はこの池を称して抑池と云つた。そして池畔に一つの丘がありかの大蛇は首をこの丘の上にして死んだので首丘と称したと云ふ。
池水はいま僅かを残すに過ぎないがどんな旱魃が来ても涸れることがないので土地の人達は池の底に水脈があつて大鱣が潜行するから水が絶えないのだ、即ちこれを下釜と云ふさうである。
夜叉の池 加賀の白山山脈の西端の嶺にある尸羅【シラ】池とも云ふ。尸羅とは龍神〈リュウジン〉のことだと云ひ、延暦の頃美濃安八〈アンパチ〉郡の大夫と云ふ郡領に二人の女の子がゐた。ある年の夏大旱がつゝいて郡内が困りぬいたところへ一人の山伏が来て一人の娘をくれゝば水を与へようと云つたので大夫は承諾すると、たちまちに雨が降つて旱魃より救はれた。その時山伏の云ふのには自分の住んでゐる場所はこれより遥か北の方の山上である。そして人ではなく大蛇であつて、八相と云ふ池に永年棲んでゐるものだと語つた。それが夜叉〈ヤシャ〉か、不幸にしてこの大蛇に与へられた娘が夜叉となつて、この池の主にでもなつたのかはよくわからぬ。しかしまた別に女が投じたゝめに夜叉池と云ふとの伝説は一つの形として有りさうなことである。
この池では伝説ではないが、村民が雨を祈るとき、紅粉、白粉、針等の女の使ふものを笹の葉舟に乗せて池水に浮べ扇子をあふぎ、これが池中へ出て沈めばよし、元の方へ吹返せば祈雨〈キウ〉の効がないと云ふ。旱魃に際しての行事であるが、夜叉の名に似ずやはり女らしいものを求める。いまこの池は美濃国揖斐〈イビ〉郡坂内村〈サカウチムラ〉に接した三ケ国の交堺〔国境〕三国嶽〈ミクニダケ〉の山中にある。環境から云つても恐ろしい伝承のありさうな池であると云ふ。【後略】
「抑池」の項の最後に、「大鱣」という難読語がある。「鱣」にはウナギという訓があるので、これはオオウナギと読むのではないか。
「夜叉の池」のところは、後半を割愛した。なお、この「夜叉の池」は、泉鏡花の戯曲『夜叉ヶ池』(やしゃがいけ)の舞台となったことで知られる。しかし末永雅雄は、そのことに触れない。
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