◎仁科芳雄博士の表情は蒼白そのものだった
『日本憲兵正史』の紹介に戻る。同書の第三編第二章「憲兵の服務」にある「広島及び長崎へ原爆投下と憲兵」という記事を紹介している。本日は、その三回目。
さて、柳田〔博〕准尉らは分隊〔広島憲兵分隊〕へ向かったが、分隊員自身も被爆しているので凄まじい熱気の中で自分の体も満足な状態ではなかった。新屋町の丁字路に来ると、基町〈モトマチ〉の中国憲兵隊司令部が壊滅しているのが見えた。
柳田准尉は司令部と本部に視察の伝令を出し、猫屋町〈ネコヤチョウ〉の分隊に到着したのは、午後二時頃であった。
柳田准尉はまず生存分隊員の確認と掌握にかかったが、 分隊員約一〇〇名のうち、元気な者は十数名に過ぎなかった。死者の始末、負傷者の手当、隊内の整理と軍用電話の敷設準備など、分隊の再建に全力を挙げた。
翌八月七日、早朝より炊出しを始め、周辺の被害者に対して救助対策がようやく開始されたときに、呉地区隊長藤本治久吾中佐以下数百名の憲兵応援隊が到着、広島憲兵分隊は廃墟の中から活動を開始したのであった。
ところが、この日、東京の憲兵司令部から、市内の外れ二葉の里に在った第二総軍司令部を通じて電報がきた。
「電文では判然とせず、直接報告者を派遣せよ」
そこへ中国憲兵隊司令部で非番のため生残った美濃曹長が来たので、東京への報告者は美濃曹長に決まり、直ちに出発して憲兵司令部に実情を報告した。
憲兵司令官大城戸三治〈オオキド・サンジ〉中将に会った美濃曹長は、司令官から直接阿南〔惟幾〕陸軍大臣にも報告せよと命ぜられた。美濃曹長は直ちに陸軍省に出頭し、まず、陸軍次官木村兵太郎〈ヘイタロウ〉中将に報告したが、この際、次官の部屋の机上に、「和平条件の案文」と書かれた機秘文書が一瞬視線に入った。その中には、天皇制絶対護持、海外将兵無武装解除という字句があったという。美濃曹長はこのときに、軍首脳がすでに終戦を準備しているものと判断したのである。
一方、広島では広島分隊を中心に、藤本中佐の指揮で各方面との連絡、被災者の救助活動がつづけられていたが、 各分所を開設して憲兵隊の提灯〈チョウチン〉を掲げると、伝え聞いた被災者が憲兵隊を頼って来る。午後八時頃になって、軍医と医療班が到着したが、満足な薬品もない。負傷の殆んどは火傷であった。これをみかねた柳田准尉は、分隊員を引率して己斐〈コイ〉駅に近い福島町〈フクシマチョウ〉の倉庫を探し、ラードを発見して持帰り、薬品の代わりに負傷者の火傷に塗布した。
この頃になって、ようやく各方面からの救援隊が到着し、憲兵隊の本格的救助活動が軌道に乗ったのである。
八月八日早朝、第二総軍司令部の西村参謀が分隊〔広島憲兵分隊〕を訪れ、
「只今から原子科学者仁科〔芳雄〕博士一行が、政府の委嘱により調査のため来広される。市内は憲兵隊が最も詳しいので、憲兵隊が博士一行を案内するように」
との指示があった。やがてトラックに乗った仁科博士一行が分隊に到着すると、分隊員が案内したが、このときに初めて原子燥弹であったこと、爆心地が広島郵便局上空五三〇メートルの地点であることが知らされた。
一旦分隊に帰った仁科博士の表情は蒼白そのもので、帰路終始うつむいたまま、全く車外を見ようともしなかった。博士の悄然たる姿は、憲兵の目にもその衝撃の大きさがわかったという。
八月九日、東京から美濃曹長が帰って来た。美濃曹長は 木村陸軍次官の部屋で見た機秘文書のことは、なにも漏らさなかった。
だが、憲兵は多忙どころではなかった。時間毎に増加する負傷者の手当に追われ、各方面からの連絡にも応えなければならない。そして憲兵の中にも、被爆の結果倒れていく者が続出したのである。
この日の午後、中国憲兵隊司令官の後任として、長浜彰大佐が到着した。
八月十日、第二総軍司令部の命令によって各部隊が応援に到着、市内西方の山手町〈ヤマテチョウ〉に在った疎開準備中の浅野別邸〔縮景園〕跡に天幕露営して、長浜司令官の指揮のもとに任務についた。ところが、補給部隊を筆頭に兵器廠、糧秣廠、被服廠の将兵の間から、何処からともなく終戦の噂が流れ始め、動揺の色はかくせなかった。この渦中に、広島憲兵分隊は最後まで自ら死者、負傷者を抱えながら、必死の救助活動および泠安の維持に当たった。分隊の憲兵はすでに働ける者は十名内外となったが、これは憲兵史上特筆されてしかるべきものであろう。
柳田准尉は終戦後の八月十八日、宇品〈ウジナ〉陸軍共済病院薬剤課長真田中尉と対談中に、頭髮が脱落し始め、真田中尉の忠告によって、夕刻より休暇をとり、故郷佐伯郡湯来町〈ユキチョウ〉の実家に帰って静養した。ところが、頭髪脱毛者が次々に死亡していくのを知った真田中尉が、八月二十二日に柳田准尉宅を訪問して陸軍共済病院に入院させ、柳田准尉は真田中尉の再三にわたる輸血で、危うく一命をとりとめることになる。
広島憲兵分隊の被爆報告は、原爆の被害状況を明らかにしたものとして、史上画期的なものである。もちろん原爆に対する知識皆無の憲兵の報告であるから、間違いや調査不充分な点は避けられない。けれども、八月末までで分隊がまとめた被害状況を要約すると次のとおりである。
一、被爆当日の爆死者八万~十万以上。
二、三日以内に内出血で死亡した者約五万人以上。
三、重傷者の大部分は十日以内に死亡している。
四、十日過ぎより頭髮脱毛の患者続出し、高熱を発し約五日間で死亡している。
そして死亡総数は約二十万以上と推定している。
当時、広島市内の人口は憲兵隊の調査では約四十万であった。正確には五十二万であったが、婦女子の疎開などである〔ママ〕。原爆による直接の死者が二十七万であったところから、広島憲兵隊の調査報告は見事なものである。憲兵の調査査計算としてはこれ以上はのぞめない。これからみても、当時、広島憲兵分隊の真摯な活躍がよくわかるだろう。あらためて敬意を表する次第である。【以下、次回】