◎筧克彦の雄叫びを、私は一度も笑ったことはない
『ジュリスト』一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」から、針生誠吉氏の「国民主権と天皇制」という論文を紹介している。本日は、その四回目。
文中、傍点がある部分は、下線で代用した。
四 論争と日本型憲法学の特質
日本の近代思想は、実は、それなりの意義と進歩的性格をもちながら、下から天皇制を支えて、明治以来の天皇制宇宙秩序の、遊星としての位置づけをもつものであり、右翼思想との断絶面はそれほど多くはなかった。レジスタンスの少数者を全くアウトロー化した太平洋戦争の総力戦以後の段階では、西田哲学、田辺哲学においてそうであったように、一層、 皇道哲学とのきれ目はなくなっていたのである。この事実は今日も、日本型民主主義者にとって正視したくない問題となっていよう。しかしそれでは日本の社会科学の暗黒大陸の部分は、つねに未来へと解決をおしやられることともなり、政治・文化における戦犯的体質を根本的にえぐり出すことはできない。それは法学、憲法学においても同様である。
西欧現代法学を駆使し輝かしい業績を残した尾高朝雄氏は、後述するように、新憲法体系「国民主権と天皇制」において、「日本国民は、国民自らの心に宿る正しい統治の理念を天皇に投影し、これを『常に正しい天皇の大御心』としておろがみ〔拝み〕まつったのである。……故に、哲学者は、天皇は『絶対無の象徴』でなければならないという。天皇は絶対無であるが故に、かえってその中に万象を宿すことができるのである。」(一六八頁)としている。戦後、文化国家のいわゆる文化人のチャンピオン、哲学者田辺元は、「天皇も絶対無を象徴せられるものとして、相対立する政党の上に立ち之を媒介統一せられるには、相対的有を媒介としながら之を絶対的に否定して、無の統一を実現せられるのでなければならぬ」(展望昭和二一年)とのべていたのである。無責任の体系として、アジアに空前の人権の大量破壊を行った日本超国家主義の心臓部は、昭和一一年〔一九三六〕文部省〔ママ〕発行の、東京帝国大学の憲法学者であった筧克彦〈カケイ・カツヒコ〉の「大日本帝国憲法の根本義」のなかにも見出される。「大日本帝国は、皇と民との『私を執つての対立』(全部対立関係)を絶する本来の一心同体である。……我国は『本来の一つ心同じ体』本来の一大生命であり、普遍我である……」(一九四頁)。その最後の頁の、一同起立、すめらみこと いやさかー いやさかー いやさかー という雄叫びは、戦-後、この名物先生の奇行として嘲笑の的とされた。しかし私は一度も笑ったことはない。否できないのである。この皇道哲学、皇道憲法学の屍体解剖は終っていないし、その遺伝子は現代日本に深い影響を残している。それは青春期レジスタンス以来の私の執念ともいうべき課題である。ただ現在は日本の社会科学、憲法学を死に至る病に追いやりつつある緊急の課題、アジア研究の基礎的方法論すらもない問題、草の根人権主義、民主主義による再生の問題などに追われている。日本憲法学の特質、これは戦中派の終生の長期的課題であろう。
戦後派憲法学の立場から、憲法論争として国民主権と天皇制の問題をとらえたものとしては故影山日出弥氏の主権論(法律時報四一巻五号、特集・論争憲法学所収)がある。そこでは佐々木〔惣一〕理論の限界を批判して次のようにのべている。「佐々木の国体論は憲法学史上、穂積八束の国体・政体の二分論の伝統を継承しつつ、穂積の国体概念における倫理的・歴史的概念としての国体概念の要素を法学上の概念から遠ざけ、国体の法的概念を問題にする」とし限界は「第一に、国体変更の認識が憲法解釈論上の次元で形式論理の操作による帰結〔原文傍点〕であること、第二に、国体変更の客観的根拠〔原文傍点〕が認識されなかったこと、である。佐々木の国体変更論の原理的構造は論理の枠祖みであって、戦後の歴史的変革の事実に支えられず、その分析と評価を科学的に試みる志向自体を何一つもちえなかったのである」としている。この評価はもとより妥当である。しかしこの形式論理の背景と位置づけはより複雑である。佐々木氏は、昭和一八年〔一九四三〕の「我が国憲法の独自性」(岩波書店)において、「我が国に於ては、立憲主義は、天皇が、統治の聖職を行い給う方法〔筆者傍点〕として、臣民に、天皇の定めさせられた筋道を踏んで統治を翼賛することを命じ給うのである」(四二八頁)としている。そして立憲主義のそのような特殊形態に、わが国憲法の独自性を見出している。和辻〔哲郎〕氏との論争における、形式論理の方法の操作に、この体質は明白に残されている。立憲主義の本質からみれば、かえって、天皇の統治などは国民の人権を実現する手段方法にすぎないのである。日本型公法学においては一般にこの方法論の位置づけは逆転している。占領軍あるいは支配層の中央集権の統治機構から流出する意志と決定こそが、解釈論的方法によってまもらるべきものであり、国民の草の根の生活の次元での人権などむしろ手段の問題なのである。それは近代日本において支配の頂点を確保する技術学ないし方法として「包摂」されていた、行政法学や、憲法学の遺伝的体質というべきである。
しかし私はこの日本公法学の病理に対するメスの入れ方は、今日までの、どの論文を見ても、満足すべき成果を見出すことができない。主権論、国体論と日本型立憲主義の技術論の二分論、前近代性の残存指摘のみでこと足るわけではない。水と油のような二分論の指摘であれば、国体至上主義ともいうべき上杉慎吉氏ですら美濃部達吉氏批判で、すでにのべている。つまり天皇機関説をとる美濃部理論が国体をたな上げした方法論は 「たとえば水盤中に一滴の油を加えたるの感を生ずる所」(上杉「再び国体に関する異説について」太陽一八巻一一号) としている。問題は近代的法技術がいかなる形と構造的位置づけにおいて権力の頂点に包摂されていたか、なのである。戦後三〇年間、学界内部では、宮沢・尾高論争などを除くと、国家権力の根本問題にかかわる論争(占領軍、安保体制についての)がほとんどなく、もっぱら法解釈学上の技術論争が支配的であったという日本型憲法学の特質はどこにあるのか。憲法学の任務は底辺からの生活意識・人権意識を統治機構の頂点までくみ上げ、権力問題としての根本法を論ずることにある。今日の公法学は、天皇機関説を問題とした戦前の学者よりは権力問題分析の能力ないし意欲すら失っているようにも見える。そして現実政治においても、日本国憲法は、政治の基準とは必ずしもなっていないし、日本の法律の根本法とはなっていない。金権政治をもち出すまでもなく重要な政治決定は、憲法の裏街道、バイ・プロセスを通じて行われている。つまりそこには真実の近代立憲主義憲法および憲法学は存在しないのではないか。私が「自治体憲法学」(昭和五一年・学陽書房)などの創造においても、社会主義理論から出発せず、近代立憲主義の正統的立場をまず主張するのはこのためである。
こうした戦後三〇年の憲法論争史の情況のなかで、限界はありながらも、天皇制と国民主権の権力問題を正面から論争の焦点にかかげたものに宮沢・尾高論争がある。それは日本の国家の独自の構造分析にまで深まってはいない。しかしこの出発点から、豊富な問題点を引き出しえなかったのは、戦後憲法学の責任でもある。昭和の天皇機関説問題の当時、美濃部〔達吉〕支持を論壇で主張しえた数少ない一人であった宮沢俊義氏であればこそ、占領下において、とにかくもこれだけの知性を示し得たのであろう。氏の限界を論ずることもまたたやすい。然し私はそこに日本型憲法学の類型を越えた理性とエスプリを感得できる。【以下、次回】