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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宮沢氏は天皇制の破綻と矛盾を回避しない

2020-08-05 01:31:17 | コラムと名言

◎宮沢氏は天皇制の破綻と矛盾を回避しない

『ジュリスト』一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」から、針生誠吉氏の「国民主権と天皇制」という論文を紹介している。本日は、その五回目。
 
  五 宮沢・尾高論争

 宮沢・尾高論争については多くの紹介があり、また最近私も書いている(「象徴天皇制と国体論争」憲法学4(昭和五一年・有斐閣双書))。だからここでは、そうした読者にも役立つように、新しい視角から既にこの問題を論じてきたのである。それが論争史の歴史的背景と展望のなかで論争の論理構造を扱う本特集の趣旨にもかなうやり方であろう。しかしし〔ママ〕ここで簡単に、両者の主張のなかで、関連する部分のみについてのべる。
 尾高〔朝雄〕氏の主張は前出の「国民主権と天皇制」によく示されている。当時を思い出すと、昭和二二年〔一九四七〕に出されたこの本を、自らの主体的在り方の問題として、高橋富雄講師(現東北大学教授)と論争にふけったのは私の旧制二高生の時代であった。敗戦による国家権力と社会のトータルな大変動は、地方の青年達をも、その論争にまきこまずにはいなかったのである。尾高氏は市民革命の産物としての国民主権主義を見事に日本化し、その本質的部分を抜き去る。多数決と国民の総意による国民主権主義の政治は、ノモスの理念にしたがう理の政治でなければならぬとして、新憲法における国民主権と天皇制の問題についての結論で次のようにのべる。国民の総意による政治方針は形のない形である。「そこで新憲法はこの形のない原則が、天皇という形のある形を通じて具象化せられることになっているのである」とする。このあたりには皇道哲学の残影を見ることができる。氏はつづけていう。「日本の伝統によれば、天皇は『常に正しい統治の理念』をば具象化してこられた。その天皇の立場から一切の現実政治上の夾雑物を除き去ったものが『象徴としての天皇』である。……かくて、象徵としての天皇の行為は、無意味な形式ではなくして、国民主権主義の理念と意味とに満ち満ちた最も重要な国事となる。それが新憲法における国民主権と天皇制との真の調和である。それが、歴史の伝統を断絶することなしに、しかも歴史の伝統にまつわる宿弊を洗い浄めたところの、新らしい時代にふさわしい新らしい天皇制の姿に外ならない。」これが尾高氏の結びである。日本の超国家主義、狂暴な天皇制ファシズムの人権無視の宿弊を「ミソギ」して「洗い浄め」、いかなる戦争責任も深刻に問われることなく、日々新たにされ、新しい時代に、旧時代と断絶なく接合される、その媒体としての法学の在り方は、あの地獄の洗礼ともいうべき戦火をくぐったからには、青年学徒といえども疑問なしにはいられなかった。また同時に尾高氏のあの、きらめくばかりの「法の究極にあるもの」(昭和二三年・有斐閣)の、アリストテレスから、ケルゼン、シュミットさらにレーニンに及ぶ理論の展開、クラッベ〔Krabbe〕の法主権論などをかりた、めざましい理論がなければ、私は魅力のない法哲学や法学を学ぼうとしたであろうか。ここに日本型法学の特質がある。
 その根本的省察はさておき、当面の宮沢・尾高論争において、宮沢〔俊義〕氏は、尾高氏のノモス主権論は、国民主権の採用による天皇主権の否定、それによって天皇制に与えられた致命的ともいうべき傷、それを包み、できるだけそれに昔ながらの外観を与えようとするホォタイの役割を演じようとするものだと批判する(宮沢俊義「国民主榷と天皇制についてのおぼえがき」国家学会雑誌六二巻六号)。つまり宮沢氏は、尾高氏のように、あらゆる天皇制の破綻と矛盾をつつみおおい回避しようとせずに、逆にその傷口のウミをするどいメスで切開しようとした。だから主権問題の分析においては、絶対無をもち出して本質的問題を放棄したりはせず、逆に主権とは国の政治を最終的に決定する意志であるとズバリという。そして単に抽象的なノモスとか絶対無とかいうものではなく「具体的な内容をもった意志でなくてはならない」とする。それは国民であり、国民とは特定の誰それではない、むしろ誰でもある。国民主権原理の主眼は主権が君主というような特定の人間に属していないということにある。以上のように包帯による病根のごまかしをあざやかに切開する。宮沢氏自身は別に天皇制の天皇制の廃止を考えているわけではない。その点での限界はありながら、尾高氏の主張に比すれば、リベラルな法学者としてのバック・ボーンがそこにある。そしてその限界をのりこえることは、フランスでも西欧でもない、日本型変種の憲法理論を生み出す土壌に対する深い分析なしには不可能なのである。【以下、次回】

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