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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

伊能嘉矩の存在が金田一京助に刺戟を与えた

2019-02-14 03:30:12 | コラムと名言

◎伊能嘉矩の存在が金田一京助に刺戟を与えた

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その三回目で、〔岩手県〕の項を紹介する。

〔岩 手 県〕
 金田一京助博士は年少にして語学の天才と謳はれ、歌人として名あり、名文を以て鳴つた。この詩藻、この文才を以て、泰西文芸に志したならば、文豪の名は期せずして到り、鴎外・逍遙とその名声を争うであらう。その世間的名声に背を向けて、ガス立ち籠むる北海道に、学究の一筋道を歩んだ博土の後姿こそ世にも悲壮なものであつた。そもそも、何が博士をして此処に立至らせたか。博士がアイヌ語学に志すと聞いた時、父母は愕然として色を失うた。たとへ、一生、英語の中等教員で終つてもよいから、アイヌ語だけは思止つてくれと願ふのは親心である。人一倍、情に厚い博士に、この親心が判らぬはずは無い。それにも拘らず、親の希望に背いて、自ら不孝の子となる事を決意した大勇猛心は、そもく、何処からその源泉を得たらうか。
 岩手県に伊能嘉矩〈イノウ・カノリ〉といふ学者があつた。東京帝大人類学科を出て、領有後間も無い台湾に渡り、匪賊と暑熱と悪疫と毒蛇の襲撃に包囲されながら、台湾文化の資料を蒐集して、遂に「台湾文化誌」全三巻の大著を完成した篤学者である。この人はいつも本を手から離さず、課親戚の御法事に招かれても本を携帯し、みなの談話から独り逃れて、本に読み耽つて居る――さういふ話を、ある時〔金田一〕博士は人づてに聞いた。これを聞いた時、博士の目には、孤独の道を行く学究の姿が、ハツキリと映じた。学者は、沈黙の内に、人に偉大な感化を及ぼす。伊能氏が金田一博士に対して、一つの刺戟になつた事は争はれない。今や、博士はアイヌ語にかけては第一人者である。いや、第一人者と言ふよりも、むしろ唯一人者である。唯一人者であるといふ事は、言ひ換へれば、孤独であるといふ事である。いかに、名声は揚がつても、孤独である事に変りはない。博士は過去三十年間を孤独に堪へ続けて来た。今後も孤独を生き続けて行くであらう。
 話は三十年前に溯る。その頃、博士は東大言語学科の二年生であつた。夏休に、盛岡に帰つて、伯父さんの金田一勝定翁を訪れた。「この夏休に、北海道へ渡つて、アイヌ語を調べてみたいと思ひます」一言の下に叱り飛ばされる事を予想しながらかう言出した。伯父さんは少し首をかしげて居たが、答は意外であつた。「それも善からう。本を読むばかりが学問でもあるまいから」斯う言つて、快く旅費を出してくれた。これが博士に取つて最初の研究旅行であつた。翌年は南樺太が日本の版図に帰した。博士の研究心と冒険心とは、前年にも増して熾烈〈シレツ〉に燃え盛つた。「今年は樺太のアイヌ諸を調べて来たいと思ひます」今度も伯父さんは快く旅費を出してくれた。博士は勇躍して、単身軍用船に乗込み、物情騒然たる樺太へ向つた。この樺太行が博士の後半生を決定する縁【えにし】となつた。今や、その伯父は亡し。金田一氏は博士号を授けられた日、亡き伯父を憶うて、粛然として懐を述べた。
  年たけて、ほまれを得つれ
    今日あるを得しめし人の今は在さず〈イマサズ〉
 金田一博士には「国語音韻論」の著がある。これは広く各地の訛音〈カオン〉を参照してあるので、方言研究者に取つても有難いものである。好評三版を重ねた。雑誌に発表されたものでは、「北奥地方の発音とアクセント」「東北弁とアイヌ語の発音」は注目すべき労作である。
 岩手県には、尚「岩手県釜石町方言誌」の著者八重樫眞〈ヤエガシ・マコト〉がある。堀合健一氏、高橋藤作氏、鈴木忠治氏にも方言集がある。私〔橘〕も岩手県人である。私が方言を研究し始めたのは伊能嘉矩氏の「遠野方言誌」を見てからであった。それは昭和三年〔一九二八〕の事である。その頃、私は郷里で病を養つて居たから(今もあまり善くないが)方言を研究する余暇は十分あつたわけである。その頃、柳田〔國男〕さんが「民族」その他に盛んに、方言についてお書きになつて居られたが、私がそれらの諸論文を拝見したのは、「民族」廃刊後であつた。勿論、それから受けた啓発や刺戟は大きい。私の興味は、最初から全国方言の比較にあつた。郷里の方言の蒐集には比較的不熱心で、却つて、他県の方言を貪り求めた。私が今日比較方言学者として立つて居るのは、この傾向を延ばしたまでである。私は今尚「岩手方言集」も「盛岡方言集」も無い。昭和五年〔一九三〇〕八月には雑誌「方言と土俗」を創刊し、昭和九年〔一九三四〕一月までに四十五冊を発行した。昭和十一年〔一九三六〕には「方言学概論」を育英書院から出した。【以下、次回】

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