礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『ことがら』は何の発行目的ももっていなかった

2019-02-05 00:43:06 | コラムと名言

◎『ことがら』は何の発行目的ももっていなかった

 昨日の続きである。『ことがら』の第8号=終刊号(一九八六年一一月)の末尾に、「『ことがら』終刊にあたって」というコーナーがある。三段組みで全八ページ(八〇~八七ページ)。ここには、青木茂雄さん、長野政利さん、小阪修平さんの三人が寄稿している。
 このうち、青木茂雄さんの文章は、昨日、紹介した。ページ数にして、一ページ強(八〇~八一ページ)である。
 このあとに、長野政利さんの、ごく短い文章がある(八一ページ中段~下段)。
 さらに、そのあとに、小阪修平さんの文章がある。これが非常に長い(八一~八七ページ)。つまり、「『ことがら』終刊にあたって」というコーナーのほとんどは、小阪さんの文章で占められている。
 本日は、その小阪さんの文章を紹介するが、「全文」というわけにはいかないので、『ことがら』という組織について、あるいは『ことがら』に参加したメンバーに言及している部分を中心に、抄出することにしたい。

■とうとう『ことがら』も終刊号となった。『ことがら』の五年間は、わたしにとっても不思議な愛着にみちた五年間であり、それは『ことがら』の組織スタイルと無関係ではなかった。【中略】
 『ことがら』編集委員会のような、なんのスローガンももたない組織が、ともあれ8号の発行までこぎつけ、マイナーな同人誌としてはそこそこの反響をよびえたことは、自画自賛かもしれぬがわたしたちが誇ってよいことだと思う。【中略】
 まず、『ことがら』がこれまで、三号雑誌の域を脱し、参加した編集委員が全員ではないかもしれないが(会を離れていったのは、個人的な事情であったということはわたしは誇りをもって言えるのだが。いろいろな個人的な事情はあったが、完全に別れた人間が一人もいず、五年間の過程をへながら、わたしにとってだれともとげとげしくなく会っているということは、ささやかなことだが組織として誇っていいことだとわたしは思う)、『ことがら』に奇妙な愛着をもつようになった理由についてのベたい。というのは、出発点で『ことがら』は個人的利害、つまりかれにとっては雑誌がどういう理由で必要であり、またかれにとっては、そしてわたしにとっては、というふうに、それぞれ異なる各人にとっての雑誌の必要性を「恣意性」として寄せ集めた組織だったからである。だが、『ことがら』の友好誌『ておりあ』を主宰している小浜逸郎氏は、わたしに『ことがら』は組織的にみんなが動いていてすごいなぁ、というような印象を伝えてくれたことがあるが、『ことがら』には奇妙な共同性の強さがあった。
 『ことがら』は二重の意味でムダな組織であった。まず、理論的な同人誌というものがムダであることにつけ加え、『ことがら』は何の発行目的ももっていなかった。発行しつづけるということが、『ことがら』の唯一の目的であった。そのためにタイプを買い、部屋代を編集委員会費として負担し合ったのだ。むろん、そこにわたしの計算がなかったと言えば嘘になる。無意味なことへの金銭負担と労力の支出を共有するほど、ある意味での共同性は強まるというのがわたしが最初の諸方針を提起する時に考えたことだったが、そのことは、わたしがはじめに考えていた以上にわたしのなかでも『ことがら』にたいする愛着を生んでしまった。
 たとえば、わたしは『ことがら』を出す二年ぐらい前から、商業誌にそこそこ文章を発表できるようになったが、商業誌に文章を発表して一万円もらうより、『ことがら』を一部買ってもらうほうが、ずっとうれしいという実感があった。とりわけ手仕事的な発行形態が続いた3号ぐらいまではほんとうにうれしかった。一部買ってもらうことが光りかがやいていた。「ことがら」にもわたしはそこそこ労力と金を費やしたが、『ことがら』を発行している間に感じたさまざまな充実感で随分とおつりがくる。そして雑誌の刊行は多くの人に義理をかける。その意味で言えば、『ことがら』を買ってくれた人はわたしにとって神様であり、とりわけ、定期購読してくれた人、掲載料を払って『ことがら』に文章を書いてくれた人、それに「売れない文章を書く場があってもよい」と考え、半分義理から編集委員になって毎月の負担金を払いふつうは金をもらうのだが、鼎談に登場してぎゃくに莫大な負担金を出してくれた笠井潔などは、かれの思想にたいする尊敬を別にしても、わたしにとっては大恩人である。
 『ことがら』の共同性はかなり強固だったと思う。もちろん、そのなかには微妙な分岐はあったのだが、ある意味での強さが『ことがら』をこれまで支えてきた前提であったにちがいない。ところで、これまでのべてきたことからもわかるとおり、『ことがら』の共同性は無内容な共同性である。『ことがら』の人脈的な関係は寺小屋教室の土曜講座に出来している。この土曜講座を担って、毎土曜日高田の馬場に泊りこむなどという愚挙を三十すぎてやった、青木〔茂雄〕、木畑〔壽信〕、わたし、木畑の友人で土曜講座に番外として顔をだした万本〔学〕、土曜講座に顔を出してわたしたちとのつき合いという罠にはまった若い草野〔尚詩〕と黒須〔仁〕、わたしが寺小屋内の有志を語らって主催していた研究会に出ていた西〔研〕が、『ことがら』の最初のメンバーであった。その後、『ことがら』には寺小屋にいた長野が加わり、外部から高野〔幸雄〕・奈良〔隆一〕が加わり、そして編集委員会を支持するということで笠井が加わってくれた。【以下、略】

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