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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

一は等一であり唯一でもなく第一でもない(聖徳太子)

2019-02-10 06:23:40 | コラムと名言

◎一は等一であり唯一でもなく第一でもない(聖徳太子)

 高楠順次郎著『大東亜に於ける仏教文化の全貌』(印刷局、一九四四)から、第十章「日本の仏教文化」を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した箇所のあと、改行して次のように続く。

 仏教は何れの国土に至るも当該国土の神祇を尊んでその信仰を認め、而して後その世代の進度に応じて自己の教義を説くのであるから、何れの国に於いても、その国の文化を全面的に擁護し推進せしむるのである。日本に於いても亦文化の何れの方面を見るも、仏教の感応力の滲透〈シントウ〉なき所は殆ど見当らない。我々は内にあつて日本文化に生き何事にも慣れ来つて〈キタッテ〉ゐるから自覚しないことも多いが、今若し外より来り初めて日本文化の起伏を検討したならば、日本の文字・文学・文芸・絵画・彫刻・音楽・舞踊・謡曲・戯曲・建築・遊戯・歌道・武道・茶道・書道・医方・香薬・国民教育・社会救護・経済組織に至るまで、如何に深く広く仏教の影響が普及せるかに驚くであらう。一般には日本には哲学者がゐないといつて嘆いてゐるものも多いやうであるが、一たび仏教哲学の内容を窺ひその深みを味ひ、哲学の諸問題が悉く触れられてゐるのを見れば、日本の哲学的天才が悉く仏教に入つて思策をほしいまゝにしたことを首肯すりに至るであらう。仏教の哲学が何故に高く広く且深いかといふに、仏教は対立性の推理に於いても深い進度を示してゐるが、これには限界があり、応理性認識の階段の届かない世界、論理教理の達し得ない、言語思想の及ばない暗黒界があるのに対して、何等の限界も制約もない一体性の現観によれば、自己の体験よりする体得、内観よりする証得の光明によつて彼の暗黒界を照らし、窮極の世界を光被し得るからである。実は照らすべき暗黒の世界は既に無く、自性の自現あるのみである。これが真実の人間性の発露である。応理性の仏教は研究の仏教として保存せられ、現観性の仏教は信修の仏教として保存される。両者の合流による大乗教を聖徳太子は「一大乗教」と命名せられた。その御自釈によると、一は等一であつて唯一でもなく第一でもない。大は至高であつて、多大でもなく容大でもなく、勝大であり高大である。かく至高性あり等一性ある大乗教が聖徳太子の目指された日本仏教であつたのである。爾来一千三百年間日本仏教の文化的進展は一大乗教の内容充実にあつたのであるが、日本仏教は果してその使命を全うしたであらうか。【以下、次回】

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