礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「君のような男」と言われた佐々木喜善

2016-02-05 04:50:33 | コラムと名言

◎「君のような男」と言われた佐々木喜善

『土の鈴』復刻版(村田書店、一九七九)の「別冊」から、本山桂川の「柳田國男とわたくし」という文章を紹介している。本日は、その後半。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 その後佐々木〔喜善〕君が村長に失脚し、仙台に出て逼塞〈ヒッソク〉した。その前後の状況は佐々木君の没後に編集刊行した「農民俚譚」〔一誠堂、一九三四〕の後記〔執筆・本山桂川〕に詳細記述してある。
 そもそもその後記が著しく柳田氏の感触をそこねたものらしい。というのは、それより先、佐々木君が生活に困って柳田氏に就職を依頼し、朝日新聞の通信員にでもと頼んだところ、柳田氏は冷然と君のような男を朝日に世話するほど僕は朝日に不忠実ではないと刎ねつけられた。それを聞いて義憤を感じていたわたくしは、そのことを右の後記に記し、且つ、あの柳田氏の遠野物語を佐々木君自身に書かしめていたら、日本民俗学の方向は今よりも違った姿をとっていたのではあるまいかと、暗に不平を洩らして書き記したためであろうと思う。爾来、甚だ疎遠になったのをわたくしは感得した。
 そんなことから佐々木君も、それより以前に柳田氏の膝下〈シッカ〉から離れ、早川孝太郎君は孝太郎君で「女性と民間伝承」〔岡書院、一九三二〕という柳田國男氏の著作〔柳田國男著、早川孝太郎編〕をほしいまゝに註釈して出版し、その印税を私したとかいうかどで遠ざけられ、往年の牛込組は相次いで柳田氏を離れて行ったのである。
 由来、柳田氏は日本民俗学の父といわれ、朝日文化賞をもその意味で授与されたのであるが、一体民俗学という名は、はじめ柳田氏のきらいな言葉であった。後年「民間伝承」の名をことさらに用いているのもその為ではあるまいか。.
 明治大正にかけては郷土研究といっていたし、雑誌「郷土研究」の名もそのためにつけられた。既にこの郷土研究時代、高木〔敏雄〕氏が柳田氏を離れた先例もある。柳田氏の祖述者には草分けの門下生というものはないのではないか。
 一体また遡れば、人類学の祖でもあり、人類学雑誌の創始者でもある坪井正五郎氏こそ、今いうところの民俗学のわが国における開拓者・開創者ではなかったろうか。この雑誌が坪井氏没後鳥居龍造〈トリイ・リュウゾウ〉氏の手に移り、主として考古学方面に走ったために、その性格を一変したけれども、柳田氏、南方氏、山中共古〈キョウコ〉氏、伊能〔嘉矩〕氏、それに佐々木君、皆一度はこの人類学雑誌のお世話にならない人はいない。世間はこの事実を忘れている。
 柳田氏が大正・昭和にかけての民俗学の父であることに異存はないとしても、坪井氏の斯学〈シガク〉における功績を忘却してはをるまい。正に坪井氏こそ「民俗学の祖父」であろう。
 南方熊楠氏は最初からアンチ柳田の旗頭であった。わたくしに与えられた数々の書翰の中には、学者の風上に置けない男だとさえ屡々〈シバシバ〉書かれていた。あの数々の南方氏の書翰と原稿も今は空しい。
 曽てまた柳田氏は、その著作物の中に一切の写真や図版を入れることを拒否された。自分の文章は写真や図版を借りる必要がないという自信から出た言葉であった。それがあの「海南小記」出版〔大岡山書店、一九二五〕に際し、松岡映丘氏の装幀や松岡静雄氏の助言やで、初めて写真カットを用いることに同意し、丁度〈チョウド〉その年琉球から持ち帰ったわたくしの写真原版の未発表のものを数枚所望されるために、市川の寓居に来訪されたのだった。
 わたくしは、既にその頃から民俗に関する写真とスケッチ採図の重要性を主張していたし、それを認めて「炉辺叢書」には早川君の「羽後飛島図誌」〔一九二五、郷土研究社〕わたくしの「与那国島図誌」が出版されたわけだ。わたくしの著述に「図誌」類の多いのもそれ以来のことである。
 先に柳田氏は朝日新聞社から「こども風土記」〔一九四二〕を出され、多くの図版をカットに用いられた。更に先般同社から出た「村のすがた」〔一九四八〕は遂に民俗採訪における写真と図版の重要性を全面的に肯定している。この点において、いつもわたくしはリュウイン【溜飲】を下げているのである。

 最後のほうで、「リュウイン」に(溜飲)というカッコ付きのルビが施されている。おそらく、「別冊」を編集した編集者による注記だと思うが、断定はしない。
 さて、この「柳田國男とわたくし」という文章は、非常に興味深い文章であって、特に、本日、引用した後半部が面白い。本山桂川によれば、佐々木喜善が生活に困って、柳田國男に対し、「朝日新聞の通信員にでも」と依頼したところ、柳田は、「君のような男を朝日に世話するほど僕は朝日に不忠実ではない」と言って、冷然とハネつけたという。このエピソードを私は、この本山の文章を読んで初めて知った次第である(広く流布されているエピソードではないと思う)。
 本山桂川は、佐々木本人から、この話を聞いたという。そして、「義憤」を覚えた。理由は言うまでもない。柳田國男の出世作『遠野物語』(聚精堂、一九一〇)の材料は、主として佐々木喜善が提供したものであった。その佐々木が生活に窮し、朝日新聞の通信員を世話してもらえないかと願い出た。ほかならぬ佐々木の、たっての頼みであるからして、若干の配慮があってしかるべきところ、柳田は、「君のような男を……」といって、これを冷然とハネつけたという。その柳田の冷血に対して、本山は「義憤」を感じたのである。【この話、続く】

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