◎柿沼昌芳氏書評『曼陀羅国神不敬事件の真相』
今月一日、教育研究家の柿沼昌芳氏から、メールで『曼陀羅国神不敬事件の真相』の書評をいただいた。非常に重要な問題提起を含むものであるとうけとった。以下に、紹介したい。
道徳教育と宗教的情操の涵養 柿沼昌芳
昨2月28日、『曼陀羅国神不敬事件の真相』小笠原日堂著(批評社)を読み、戦時下の日蓮宗に対する異常なまでの激しい弾圧とそれに抗して戦った日蓮宗門徒の記録に思わず引き込まれました。読んで、かつて「国家神道」が、キリスト教会にさえ、神棚の設置を強制したことが理解できました。(*)
いま、文部科学省は小中学校などでの道徳教育学習指導要領案を発表していますが、その中で気になるのは〔感動、畏敬の念〕です。たとえば中学校では「美しいものや気高いものに感動する心をもち,人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めること。」としています。
また、2013年2月には、安倍内閣が設置した「教育再生会議」が、いじめ問題への対応をまとめ、その中で、いじめ問題への本質的な問題解決のために道徳教育の重要性を強調し、道徳教育の教科化が提言されました。それを受けて「道徳教育の充実に関する懇談会」が「今後の道徳教育の改善・充実について(報告)」をまとめ、その中では、道徳教育の内容、指導方法、評価はもとより、学校の指導体制、教員研修、教員養成、免許に至るまで提言されています。
こうした主張は、2006年に「改正」された教育基本法における、「宗教的情操の涵養」は人格の形成には不可欠だという主張と酷似しています。すなわち、子どもたちが、自然や崇高なものへのかかわりを大切にし、その中で「畏敬の念」を高めることができる、そのことによって宗教に関する寛容の態度が養われるとする主張です。
一口に「宗教的情操の涵養」と言いますが、それぞれの宗教によって「宗教的情操」は異なります。普遍的な「宗教的情操」などあり得ません。もしそうしたものを子どもたちの教えるというのであれば、「透明な宗教」といったものにならざるをえないでしょう。
そこで想起されるのが、戦前、すべての宗教の上に位置していたといわれる「国家神道」です。この「宗教」は、キリスト教会に神棚を強制したことでもわかるように、あらゆる宗教に優位する宗教であり、国民である限り「入信」させられる宗教でした。
そのような「宗教」における「宗教的情操」であれば、あるいは、すべての子どもたちに教育できるのかもしれません。
いじめ問題は深刻ですが、それと「宗教的情操」とはどのように関わるのでしょうか。いま、宗教をめぐる争いは人類的課題になっています。道徳教育を めぐる動向は、そうした人類的課題と関わって検討する必要があります。
* 磯田一雄「宗教と道徳」167p(藤田昌士編『道徳と教育』〔講座日本の学力11巻〕日本標準、1979年、所収)
近年、文部科学省などが強調してきた「宗教的情操の涵養」という発想の問題点を、戦前・戦中における「国家神道」との関わりで指摘している。
柿沼昌芳氏は、戦中に学童として「疎開」を経験した世代である。それだけに、この問題提起には説得力がある。
不思議なのは、同様の問題提起が、他の教育学者からは全くおこなわれていないこと、また、宗教界からも、こうした問題に対する危機感が表明されていないことである。こうした現状の意味するところについて、柿沼氏から直接、ご意見を伺ってみたいと思っている。
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