◎エノケンの狂騒的な踊りが意味するもの
今月五日のブログでは、映画評論家・青木茂雄氏の『虎の尾を踏む男達』論を紹介した。青木氏の推定するところによれば、この映画は、敗戦直前に一度クランクインし、敗戦を受けて、脚本を修正した上で、改めてクランクインしたのではないかという。その可能性は否定できないと受け取った。
ところで、この映画については、もう少し述べておきたいことがある。そのひとつは、映画のラストに近い部分で、酔いがまわったエノケンが舞う(踊る)シーンである。このエノケンの踊りについて、中村秀之氏は、その著書『敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画』(岩波書店、二〇一四)の中で、「いささか多幸症的で狂騒的なその踊り」と評している。
このエノケンの踊りは、たしかに「多幸症的で狂騒的」である。こうした激しくかつ奔放な身体操作は、なかなかできるものではない。さすがはエノケンだという感を深くした。
ところで、このエノケンの踊りだが、改めて観賞してみると、バックの音楽が、また素晴らしい。音楽は服部正の担当であるが、すでに十分、「戦後」の気分が出ているような気がする。
ところで、中村秀之氏は、前掲の本の中で、次のように書いていた(二三~二四ページ)。
……製作開始が八月一五日以前であると信じるべき理由はない。それどころか、映画公社の記録によれば九月に入ってからクランク・インしたという可能性さえあるのだ。すでに述べたとおり、上映禁止やその解除についても、黒澤明の回想は記録が示す経緯や日付と一致しない。『蝦墓の油』の少なくとも『虎の尾を踏む男達』のくだりは事実とは別個の一つの話として受けとめるべきだろう。
そこであらためてそのような視点から読んでみると、目を引くのは、「日本は戦争に敗けて、アメリカ軍が進駐し」という記述に見られるような「八月一五日」の欠落である。ただし、一九四五年八月一五日の出来事が書かれていないということではない。すぐあとの「日本人」と題されたセクションに、次の一節がある。
《私は、一九四五年八月十五日、天皇の詔勅のラジオ放送を聞くために、撮影所へ呼び出されたが、その時歩いた道の情景を忘れる事が出来ない。
往路、祖師谷〈ソシガヤ〉から砧〈キヌタ〉の撮影所まで行く商店街の様子は、まさに一億玉砕を覚悟した、あわただしい気配で、日本刀を持ち出し、その鞘を払って、抜身の刃をじっと眺めている商家の主人もいた。
詔勅が終戦の宣言である、と予想していた私は、この有様を見て、日本はどうなる事かと思った。
しかし、撮影所で終戦の詔勅を聞いて、家へ帰るその道は、まるで空気が一変し、商店街の人々は祭りの前日のように、浮々とした表情で立ち働いていた。
これは、日本人の性格の柔軟性なのか、それとも虚弱性なのか。》
『蝦墓の油』の文章で目立つのは、頻繁に改行が施され、結果として余白がとても多くなっていることである。しかし、空隙は本文中にも見出される。この引用文は八月一五日の出来事を語りながら、そこに肝心の「八月一五日」が欠けている。すなわち、「天皇の詔勅のラジオ放送」に対する語り手自身の心情が何も書かれていないのだ。放送の前後の周囲の人々のふるまいを、ほとんど高みから見下ろすように観察し、批評的な考察を加えているだけである。【以下略】
やや、引用が長くなったが、ここで注目したいのは、下線を引いた「商店街の人々は祭りの前日のように、浮々とした表情で立ち働いていた」という部分である。終戦の放送の前までは、一億玉砕を覚悟しているかに見えた商店街の人々が、放送のあとでは、祭りの前日のように浮々としていた(少なくとも、黒澤監督の眼には、そう映った)というのである。
エノケンの「多幸症的で狂騒的」な踊りは、黒澤監督のそうした「観察」に基づく演出だったのではないだろうか。改めて、この場面を再生してみると、音楽(服部正)もまた、いかにも解放的であることに気付く。やはりこの映画は、「敗戦直後」にふさわしい作品であり、終戦直後の日本人によって観賞されるべき映画だったと思う。
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