イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

こんな本が好き

2009年08月23日 20時23分21秒 | Weblog
僕が内田樹さんの本をよく読むのは

この人は、何かとても人間の根源的なあり方を示しているように思えるからです。

思えるからと書いたのは、ただ受け取っている僕がそう感じているだけに過ぎない

という含みを持たせてのことです。

でも、それでいいはずです。バルトの言うとおり、

読まれた瞬間、その書物は読み手のものとなるのですから。

今読んでいる内田樹さんの本は、

「疲れすぎて眠れぬ夜のために」。

再読です。いや、再再読です。

再再読しているその中でも
特にしつこく読んでいる箇所があります。

第二章、「働くことに疲れたら」の中にある
交換は愉しいというセンテンスです。

交換こそは人間としての本質的行いであると、
ここでは語られています。

まず最初に「イライザ」と言うパソコンソフトが紹介されます。

このソフトは打ち込んだ言葉をそのまま返してくれると言うものです。

私は山田ですと打ち込めば、山田さんですね、と返してくれるのです。

このソフトで発展的な会話をすることはできません。

しかし、このソフトを精神疾患の患者に使ったところ、
目に見えて効果があったと言うのです。

ここで大切なことは、

会話とはぽんぽんと内容が変わっていくことが
愉しいのではなくて、

投げかけた言葉に対して、ちゃんと受け取りましたよ、
と言う意思表示がなされるやり取りが愉しいのだと言うことなのです。

つまり交換は愉しいとは、

お互いに違うものを交換し合うことが愉しいのではなくて、
言葉を変えれば、そこが本質ではなくて、

与えたものがいて、それに対し、感謝とともにそのものを受け取りましたよ、
と意思表示されるやり取りが愉しいと言うことなのです。

さらに内田さんは続けます。

恋人同士の会話は先に上げた「イライザ」とあまり変わりないというのです。

「きれいだね」と言うと「本当にきれい」と返す。

同じ言葉を繰り返しているだけなのだけれど、
それで十分に愉しいし心地いい。

このような会話を「交話的機能」と言うのだそうです。

なぜこのような会話が愉しいのか、

それは、会話の本来の目的が情報の交換にあるのではなく、
言葉を発する人がいて、この言葉を感謝とともに受け取り、
それに返礼する人がいる、と言う事実を確認することにあるからだと言うのです。

僕はこの文章を読んだとき、直感でそれが真実であると感じました。


ダカラ、これからも僕はこの人の本を読み続けなければなりません。

だからと言って全てを受け入れているという訳でもないんですけどね。