イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

ソシュール

2008年05月31日 19時22分18秒 | Weblog
言葉はものの名前ではない。
創世記によれば人は神が用意しておいたさまざまな万物に、これはライオン、これはキリンというふうに名前をつけていったというのです。
それはつまり、こんなふうに首が長くて背の高い動物の名前はキリンがいいかな、という具合に概念はあるがそのものの呼び方がなかったので名前をつけたのですよ、ということです。
これはこれで一見納得です。
そうやって名前をつけていったのであろうな。私もそう思う。と思ったのですが、そうじゃないんじゃないの、それは違う、概念が先ではない、混沌とした状態の中で、それらを切り分けていく中において概念が生じたのだと私は思う、と主張する人が出てきたのです。
そうやって切り分けて名前がついたからこそ概念が生じたというのです。
それは例えるなら夜空にきらめく満天の星を線で結び星座という概念を生じさせるのに似ています。
星を線で結ぶことができた人にとっては夜空の星は白鳥であったり、こぐまであったりするのですが、切り分けることができない人にとってはまさしく満点の星以外のなにものでもないのです。
そういわれるとそうだよな、とも思いますね。
はじめに言葉ありきなのですよ。
はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。
何かヨハネによる福音書を読み解くきっかけになりそうですね。
因みにこれも構造主義の話です。

構造主義再開

2008年05月11日 16時01分14秒 | Weblog
連休からこの方どうにもパソコンの前に座ることがしんどかったんです。疲れが取れないのです。体がすっきりしなくて、パソコンの前に座ったとたんにため息が出る始末で、「そうだ、これはきっとパソコンアレルギーに違いない」とまー、いわば強引にそう決め付けまして、多少でも気になりだすまでは電源も入れるのやめようと、これまた勝手な決意をしまして、今日に至ったわけであります。別段、テレビがなくとも、パソコンがなくとも、これといって生活に支障をきたすほどの変化はありませんよ。多少情報を受け取るのにタイムラグが生じる程度ですね。
これからまたブログの続きを書いていこうかなと思ってはいるのですが、何しろ「寝ながら学べる構造主義」という本は寝ながらでは決して学ぶことのできぬ厄介な代物ですから、しかも私の言葉で文章に起こすとなると、かなりの部分を消化しきっていないと堂々巡りにもなってしまいますから、続けていこうと思いながらそのじつ、相当に面倒くさい行為でもあるなと思っていたりもしているところです。
でもやりますとも、
なぜならば、誰かを想定して、その人のためにわかりやすく説明をするという行為は予想以上に自分自身が理解できることでもあるから。
これはきっとどんな勉強にも応用のきく行為ではないかと思います。

えーっとニーチェからでしたでしょうか。

2008年05月06日 17時01分40秒 | Weblog
連休中休んでしまいました。
子供がどこか行きたい、どこか行きたい、こどもの日にどこへも連れて行かない親などいないと泣き叫ぶものですから、仕方なくまた上野へ。えーっと今度は動物園。
パンダのオリにはレッサーパンダが入れられていました。そして旭山動物園と勘違い?した入園者が白熊にこれでもかというくらい集まっていました。
凄まじい人人人人人でしたね。何しろベンチというベンチ石段という石段に人が座り、それでもまだ足りずあちこちでレジャーシートを広げたり、新聞を広げて座ったりで、なんだかもう足の踏み場もないような有様でした。
アー目が回る。
しかもあまりの人手に嫌気がさした子供たちも早々と、出たいよー、こんなところもう嫌だよー、と駄々をこねる始末です。

帰りに下町風俗資料館に入ったのですが、なんだかこっちのほうが喜んでいましたね。
明日からは間違いなくニーチェですから。
それではまた明日。

構造主義の源流・フロイト

2008年05月02日 20時16分06秒 | Weblog
さて、今日からフロイトです。マルクスを理解するのには骨が折れましたが、フロイトはややわかりやすいと思います。
マルクスは、私たちは私たちの主体性の下に思考しているようで、じつは階級的に思考しているということを看破しました。思考を規定しいるものを外側から探り当てたのです。
フロイトはと言うと、もちろん彼も主体的に思考しているようで実はそうではないということを言っているのですが、彼の目は外側にではなく、内側に向かったのです。私たちは自由に思考しているようで、実は自分がどういうふうに思考しているのかを知らないで思考している。ということを看破したのです。
それでは具体的に見ていきましょう。
フロイトは、意識化することが苦痛と感じるものを人は無意識に排除しているという抑圧のメカニズムを発見したのです。たとえばそれは車における酒気帯び運転に当てはめることができると思います。お酒を飲んだ後に運転することは誰もが間違っている行為であり、仮に警察官に捕まれば、それなりの重い罰則規定があることは当然知って知っているはずなのですが、にもかかわらず酒気帯び運転をする人のおよそ全員が捕まるという可能性を、さらには事故を起こすかもしれないという可能性を意識の外に追いやってしまうのです。「捕まる」または「事故を起こす」という知識はあるはずなのに、それを無意識に避けてしまうのです。
このように「意識活動の全プロセスにはある心的過程から構造的に目を逸らし続けている」という抑圧のバイアスがつねにかかっているのです。そうです。つまり人は意識化したがっていないとう事実を意識化できないのです。
マルクスもフロイトも突き詰めれば「私は私の意識の主人ではない」ということをいっているのですね。ね。そうですよね。まちがっているかな。
フロイトは、短いですが今日でおしまい。
明日はちょっと憂鬱ですが、ニーチェです。


フロイト、のその前に

2008年05月01日 19時41分48秒 | Weblog
今日からフロイトです。と言いたいところですが、やはり一言、いや二言三言いいたいのです。私が読んでいる本のタイトルは「寝ながら学べる構造主義」であるはずなのですが、まるで寝ながら学べないのです。「寝ながら」いう言葉から感じ取れるものは、寝そべりながら煎餅でもぼりぼりかじって、と言う程度のもののように思えるのですが、私のやっていることと言えば、絶えず赤ペンを握りしめ、単語を囲ったり、重要だと思えるセンテンスに波線を入れてみたり、理解できたことを余白に書きなぐったり、あるいは読み返したりと、それはもう受験生のようなありようで、根をつめて読んでいるのです。いわば私の知力の全てを注ぎ込んで読み込まなければ到底理解に及ばない代物なのです。
私はこんなにも読解力に乏しい人間であったのかと打ちのめされるような感情と戦いつつ、硬い硬いコンクリートにスプーン一つで穴を開けるかのごとく、本当に苦労しながら読み進んでいるのです。
それでも言いたいことの少しばかりはわかってきました。誰もが等しく、もう少し広い視野を持ってみて見ましょうよといっているのです。たとえばそれは生きることに疲れきってしまった人にだって問いかけることのできるものなのです。あなたが絶望的に感じているその感情はもう少し視野を広げていけば本当は乗り越えることができるものなのかもしれませんよと。もう少し冷静になって、観察してみましょうよと言っているのです。
私はそんな風に感じました。構造主義とは相互理解のための思考方法でしょうか。
と書いては見たものの実はまだ本格的な構造主義に入っていません。次に登場するフロイトも構造主義の源流であって、構造主義そのものではありません。さらにその後に控えているニーチェもです。
「寝ながら学べる構造主義」をこのように噛み砕いていく作業は、今後私のライフワークになりそうです。
すいません。大袈裟すぎました。
明日こそフロイトです。
それではまた明日。