イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

今日でおしまい レヴィ=ストロース

2008年10月25日 18時05分25秒 | Weblog
レヴィ=ストロースは人間は三つの水準でコミュニケーションを展開する
といっています。財貨サービスの交換(経済活動)、メッセージの交換
(言語活動)、そして女の交換(親族制度)です。

このどれもが最初に誰かが誰かに与え、「与えたもの」は何かを失い
「受け取ったもの」がそれについての反対給付の責務を負うというしかたで
構造化されているのです。しかしこれだけでは人間的コミュニケーション
の定義としては足りません。婚姻規則においては前にも述べたように絶えず
「ずれていく」からです。

「パートナーたちは自分が贈った相手からは返礼を受け取らず、自分が贈られた
相手には返礼をしない。あるパートナーに贈り、別のパートナーから受け取るの
である。これは相互性のサイクルであるが、一つの方向に流れている」(構造
人類学)

ふと、思ったのですが、こんなふうに考えていくとやはり内緒話というのは
内緒にはならないのだなと思うのです。

「これ絶対に内緒ね」そうやって聞かされたものはその反対給付の抗いきれない
責務(人間に固有の気分)をどこかで解消しなければもはや気がすまない。

何であれ、受けたものに対しての返礼から人間は逃れられないのです。
いいもの悪いものは関係がない。なんであれです。

先日HNKでチンパンジーの特集をしていました。
DNAレベルにおいてさえ酷似している人間とチンパンジーの違い。それは
伝授していくという法則なのだそうです。

人間は何かを教えられるとそれを誰かに伝えずにはいられないのです。

それに引き換えチンパンジーは伝授していくという行動がまったく見られない
のだそうです。最初に飼育員が一頭のチンパンジーに何かを教える。(たとえば
箱の小さな入り口にコインを入れると好物が出てくるといったようなこと)
この情報は、何度か見て盗むという方法以外には伝達していかないのだそうです。
どれだけ親しい間柄であれです。発展が望めないのです。飼育員がどれだけ
教えられた知識を仲間のチンパンジーにも教えるよう仕向けても、これだけはうまく
いかなかったのだそうです。

そこで私たち自身を考えてみる。

教えられたことを誰かに教えずにはいられない。

人間であれば贈与と返礼の往還の中で次々に変化していく。同一状態には
留まれない。

しかしチンパンジーはそのような構造を持っていない。

話を元に戻しましょう。

レヴィ=ストロースは「自然な感情」や「普遍的な価値観」のことを
言っているのではないのです。そうではなくて、「価値観」や「感情」は
驚くほど多様なのだけれども、それらが社会の中で機能している仕方は
ただ一つだということなのです。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることが
できない」と「私たちが欲することはまず他者に与えなければならない」という
二つのレールです。このルールは時代や場所を問わず、他者と共存していくための
あらゆる集団に妥当なものとして存するルールなのです。

さまざまな価値観、感情表現があるけれども、そのどれもが
「同じ状態に留まらせない」ためと、「何か欲しいものがあるとき
はまず与えることからはじめなければ」というルールを機能させる
ためにある、ということなのです。

単純に考えると同一の状態に留まることこそが人間の本性だと思えるし、
ものを手に入れる一番合理的な方法は自分で独占して(チンパンジーのように)、
誰にも与えないことだと思っています。
しかし人間社会はそのような制止的、利己的な生き方を許容しません。
仲間と共同的に生きてゆきたいと望むなら、このルールを守らなければ
ならないのです。

人間は生まれたときから人間であるのではない。ある社会的規範を受け容れることで
人間になるのだ。

これがレヴィ=ストロースの答えです。

そしてこの人間性の起源こそが、まさしく「隣人愛」であり「自己犠牲」なのです。

いかがでしたでしょうか。

今日でレヴィ=ストロースは終わりです。

次は最後の難関、ラカンです。


とうとうここまで来てしまいました。

レヴィ=ストロースのこの法則はラカンにおいても見ることができますので
どうかしっかりと理解しておいてください。


それはそうと、あのサルコジの鼻につくほどの日本軽視はどうなんですかね。
全てのフランス人があのように日本を軽く見ているのではないとは思いますが、
やはりサルコジはフランスを代表する人ですからね。

サルコジがフランスの代表であるうちは個人的にですがフランス製品の不買運動を
してやろうかなと思っています。
最も私のような一般庶民には「そもそも」なのですがね。



 

後もう少しでレヴィ=ストロースは終わりです

2008年10月23日 19時39分59秒 | Weblog
この贈与に対する「反対給付」という義務感は、およそ人であるならば
簡単には抗いきれないものなのです。
贈与されたものは返礼をすることによって、いったんは不均衡を
解消するのですが、返礼を受けた者は再びそれを負い目に感じ
、その負債感は、返礼に対してさらに返礼するまで癒されません。

つまり最初の贈与があった後は贈与と返礼の往還は理論的には
無限に続くことになります。

このシステムによる効果は二つあります。

ひとつは贈与と返礼の往還のせいで、社会は同一状態にとどまることが
出来ない、ということです。

そしてもうひとつは人間は、自分がほしいものは他人から与えれるという
仕方でしか手に入れることが出来ないという真理を人間に繰り返し刷り込むこと
です。
何かを手に入れたいと思ったら他人から送られるほかない。

そして、この贈与と返礼の運動を起動させようとしたら、
まず自分がそれと同じものを他人に与えることからはじめなければならない。

これが贈与に対する基本ルールなのです。

「なになに」と思われるかもしれませんが、私たちの日常に当てはめてみれば
まさしくそのとおりであることに気づきます。

私たちが欲しいと願ったものは何であれ、欲したものの方から先に
与えなければならないのです。

言葉であれ財貨であれこの法則は変わりません。

簡単な例でいきましょうか。

挨拶をされたければ、まず挨拶をしなければなりません。

話したければ、まず話しかけなければなりません。

最初に与える。与えれたものは「反対給付」の義務感からは逃れられない。

自分が欲しいものは同じようなものをまず最初に与えなければならないのです。


これからが本当の佳境のなのですが、
この話の続きはまた明日 たぶん。


唐突ですが、インコ買いたいんですよね。
ホームセンターのペットコーナーにいまして、
これが成鳥とヒナのあだくらいで、指を近づけると
口を大きく開けてえさを催促するんですよ。

かわいいんだよな。

妻に反対されそう。たぶん買えないな。


 

もうすぐ佳境です。 レヴィ=ストロース

2008年10月21日 20時02分27秒 | Weblog
なぜ人間は近親相姦を禁止するのか。

それは女のコミュニケーションを推進するためである。
これがレヴィ=ストロースの答えです。

どういうこと?

ここからとても大事です。

「近親相姦の禁止とは言い換えれば、人間社会において、男は、別の男から、
その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか女を手に入れることが
できない、ということである」

そんなのあたりまえじゃん。

このあたりまえと思われる構造の中に息を呑む仕掛けが隠されているのです。

もちろん生物学的にみても近親相姦を禁止する
メカニズムは証明されるのかもしれません。

しかしここではそのような視点から近親相姦の禁止を言っているのではないのです。
人が人であるためにこのようなシステムになっていると言っているのです。
それは反対解釈をすればこのようなシステムの中に入らないと
人としてあることができないということです。
さらに続けましょう。

「血統を存続させたいという欲望のことを言っているのではない。
そうではなくて、ほとんどの親族システムにおいて、ある世代において
女を譲渡した男と女を受け取った男の間に生じた最初の不均衡は、
続く世代において果たされる『反対給付』によってしか均衡を回復されない
という事実を言っているのである」

とくに難しいことはないと思いますが、もう少し噛み砕きますか?

女を受け取った男がそのお返しをしようとしても、代わりに自分の娘を
義父に渡すわけにはいかない。この男が背負った不均衡は次の世代における
「反対給付」によってしか回復されることがない、ということを言っているのです。

ほぼ同じか。

ここでのキーワードは「反対給付」です。
「これは要するに、何か『贈り物』を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、
『お返し』をしないと気がすまない、という人間に固有の『気分』に
動機付けられた行為をさしています。この反対給付の制度は(夫婦愛や、父性愛を
知らない集団があるというのに)、知られる限りの全ての集団に観察されます」


面白くなってきましたね。
さらに面白くなってくるのですが、長くなりましたので
今日はこのへんで、


ところで「世界のなべあつ」って、ネーミングが最高にいいですよね。
「世界」とついているだけで見ているこちら側もなんだか得した
気分になるんですよ。世界的な何かを見てしまったようなね。
そんなことないですか? 

僕の勉強方 哲学編

2008年10月20日 19時54分45秒 | Weblog
連日レイヴィ=ストロースのことばかり書いてきたので
ここらで少しばかり話題を変えようかなと、

私のような決して頭のよくない、さらには幼いころから
勉強というものに対して虫酸が走るほどに嫌いであったものにとって、
哲学などという高等高尚な学問を知ろうとすれば、それはもう
朝から晩まで、風呂に入っているときも、便器にしゃがみこんでいるときも、
寝てもさめても考えとおし、ようやく一行ないし二行ほどの文章を理解するという
くらいの苦労をしなければなりません。

それでも何とかレヴィ=ストロースまできました。

これはもはや奇跡です。

なぜ奇跡といえるのか、

それは私のボキャブラリーの低さにもあります。

まず知らないんだから。

知らない言葉だらけ。

それを地道に理解していくところからはじめなければならないのです。
次から次へと現れるカタカナ英語、普段目にすることも、もちろん
話し言葉で使うことなどありえない漢字が時折意表をついて飛び出してくる。

いったいコリャなんだ。なんていう?

そのたびに余白に書き込み、赤線を引き、青線を引き、波線を引き、
丸で囲み、何度も何度も読み返し、何度も何度と言うのは二度三度のことを
言っているのではないのです。

取り憑かれたかのように同じところばかり読んでいるのです。

これほどまでに頭のよくない私が、どのような方法で
難解極まりない文章を理解してきたのか。

その方法をこれからお教えしましょう。

これは本当に取って置きの方法です。


それは、
誰かを想定して講義するのです。

この誰かは誰でも言いというわけではありません。

できるだけ魅力的で憧れを感じるような人がいいでしょう。

芸能人でもいいのです。木村たくやでもいいのです。草薙くんでも、

とにかくできるだけ魅力的な人を想定して、まさしく語りかけるかのごとくに
講義しましょう。

これをするとですね、
語っているうちにぐちゃぐちゃに絡まりあっていた思考が、
あーら不思議、いつの間にか整理できてしまうのですよ。

これをするときの注意点はですね、

お風呂やトイレ、または車の中など、一人のときがいいですよ。

そうじゃないと周りの人に変に思われてしまいますからね。

私などはですね、何度も妻に

「お父さん大丈夫?疲れてない?」なんて聞かれています。

会社の連中にも、

「そういえばお前このごろ独り言多いよな」なんて言われてます。

単なる独り言じゃないぞ、高尚な独り言だ、と胸の中で言っています。

それではお試しあれ
 

久しぶりに連日かいております はいどうぞ レヴィ=ストロース

2008年10月19日 16時13分05秒 | Weblog
私たちの持ち合わせている常識がものの見事に壊されていく。

常識的には、自然な親子、兄弟、夫婦の感情がまずあって、
それに基づいて親族制度を作り上げてきたと、およそほとんどの人が
そう思っているのではないでしょうか。

つまり人間が社会制度を作り上げてきたのだと。

しかしレヴィ=ストロースはそのような「人間中心」の
発想を許しません。

人間が社会制度を作るのではなくて、社会制度が
人間を作り出すのです。

社会構造は人間的感情や、人間的論理に先立ってすでにそこにあり、
むしろそれが私たちの感情のかたちや論理の文法を事後的に構成しているのです。

言われてみれば確かにそうだ。

「さまざまな信憑や習慣の起源について、私たちは何も知らないし、
この先も知ることができないだろう。なぜなら、その根は遠い過去の
中に消えているからだ。習慣は内発的感情が生まれるより先に、
外在的規範として与えられている。そして、この不可知の規範が個人の感情と
その感情がどういう局面で表出されうるかあるいは表出されるべきかを
決定しているのである。」

ここからさらに面白くなっていきます。もう目が離せません。
人間性の起源へとまっしぐらです。

しかし、全ての社会制度の起源が闇の中にあるわけではないのです。
なぜこのような親族システムを採用したのかは分らないにしても、
この親族システムが存在する理由は分っています。

親族構造は端的に「近親相姦を禁止するため」に存在する。

「近親相姦の禁止」と「人間性の起源」なんだかまるで結びつきを感じない
のですが、思わぬ角度からこの二つを結び付けていくのです。

ここからどのような視点を持てば「隣人愛」や「自己犠牲」といった行動が
人間性の「余剰」ではなく、まさにそれこそが人間性の起源であると見抜けたのか
知りたくないですか。

僕は知りたい。

まだまだ気力みなぎっておりますので、たぶんこの続きは明日書けるでしょう。

あまり豪語してはいけないですね。

書くつもりでいます。

書けたらいいな。ぐらいにしておこう。


ところで、妻の運転の姿勢ときたらそれは面白いんですよ。
前のめりになって運転するんです。シートにもたれないんです。
その姿勢の余裕のなさときたら見てるだけでハラハラします。

それでは明日。
 

気力があったので今日も書いてみた レヴィ=ストロース

2008年10月18日 14時54分48秒 | Weblog
親族の基本構造がこんなにさらっと書かれていていいのかと
訝しる向きもありますが、私たちがまだ触れたこともない
新しい「知」に遭遇したときは、まずはそれを無条件に受け入れ、
「私」の言葉に換えて表現できるくらいのところまでいかないと
その新しい「知」に到達することができません。
上っ面をなめた程度でも批判することは可能ですが、
それでは知ることの喜びを感じられません。

何だこれは、いったい何を言わんとしているのだ。

そんな風に直感(多くの体験を通して、肌で感じられるようになった感覚)
で感じられるようになればしめたものです。
多くの場合疑問すら感じずに通り過ぎてしまうのですから。


これから記すことは本当に奇抜です。

ではどうぞ、

さまざまな社会集団における家族間の「親密さ/疎遠さ」を掘り下げていった結果
そこにはあらゆる家族集団に共通する不思議な法則が呈していたというのです。

0ー父とその息子は親密だが、甥と母方のおじさんは疎遠
1ー甥と母方のおじさんは親密だが、父と息子は疎遠

0-夫と妻は親密だが、妻とその兄弟は疎遠
1-妻とその兄弟は親密だが、夫婦は疎遠

あらゆる家族集団はこの二項対立の二つの関係において
必ずどちらかの選択肢を選ぶ。

これが不思議な法則の正体です。

身近な家族間の関係から、文明とは関係のないような
「部族」と呼ばれる集団にさえこの法則が存在するのです。

いったいなぜ世界中の社会集団の中にこの構造があるのか。

「この構造は考えうる限り、存在しうる限り最も単純な親族構造である。
まさしくこれが家族の基本単位なのである。親族構造が存在するためには
人間社会に常に存在する三種類の家族関係ー共通の父を持つ関係、
婚姻関係、生んだものと生まれたものとの関係、言い換えれば兄弟姉妹、
夫婦、親子がそこに含まれていなければならない」

とレヴィ=ストロースは答えています。

これこそが親族の基本構造なのです。

そして世界中の言語音が十二の二項対立で表現できるように
世界中の親族構造は二つの二項対立で表現できるという仮説を立てたのです。

これはあまりにも大胆な仮説ですが、この仮説をまずは丸ごと受け入れてみると、
そこから二つのことが見えてくるのです。

一つは、人間は二項対立の組み合わせだけで複雑な情報を表現しているということ、

もう一つは、私たちが親や兄弟、子供などに感じる情は
じつは自然で内発的(人間に生まれながらにして普遍的に備わっている情)
なものではなく、構造によってつくりだされたものだということです。


まだまだ続くのですが、今日はこのあたりでお開きということにしましょう。

最後に一言、

「人間性の起源は贈与にある」このキーワードから離れてはいけません

最後にはちゃんと納得いきますから。


因みに、

私は妻の入れてくれるコーヒーを一度もおいしいと感じたことがないのです。

自分で入れるコーヒーは
お決まりのマグカップにまずコーヒー(ネスカフェエクセラ)大さじ山盛り一杯
次いで砂糖大さじ一杯半、クリープ大さじ二杯これが私の黄金比なのです。

妻が入れてくれるコーヒーは薄くて、、、、。

妻には何度もこのような比率で入れて欲しいと頼んでいるのですが、
そんなに濃いコーヒーは体に悪いという理由でまったくもって聞く耳を
もたないのです。

酒もタバコもギャンブルもやらないのですから、
一つくらい体に悪いことがあったっていいじゃん。ねー? 


今日も書いてみっか レヴィ=ストロース

2008年10月17日 20時55分04秒 | Weblog
音韻論によれば、さまざまに発せられる言語音の音素を
二項対立にして分類していくと、十二の二項対立によって、
全ての音素を表現することができるのだそうです。

因みに音素とは集合的な同意に基づいて、言い換えれば、
日本語であれば日本の同意に基づいて、つまり、raもla
も共に「ら」ということにしようね、という同意に基づいて、
同音とみなされている言語音の単位のこと

これら世界中で使われている音素は実にたったの十二の二項対立
の組み合わせによって表現されているのです。

それがどう人間性の起源は贈与という考えに結びついていくのか。

不思議ですよね。

十二の二項対立の組み合わせによって無数の異なった状態を表現できる
というこの音韻論発想法を人間社会の全ての制度に当てはめることはできないのか、

そうレヴィ=ストロースは考えたのです。
これこそ科学者のひらめきとも言うべきものですよね。

ここからです。

レヴィ=ストロースはこの大胆な発想(もちろんこの発想に至るまでには
相当に時間を費やしたのではないかと思いますが)によって親族の基本構造
にたどりつきます。

「人間性の起源は贈与にある」という結論にはなかなかたどり着けません。

でも最後にはちゃんとたどり着くから大丈夫。

このとんでもない迂回こそが大事なのです。


理解したばかりのものを文章に起こす作業は意外と大変です。

この「寝ながら学べる構造主義」を
私は多くの人に読んでいただきたいのですが、
以前にも書きましたようにこの書物はけっして
寝ながら読める代物ではありません。

きっと軽い気持ちで手にした人の多くが
読むことをやめてしまったのではないかなと思います。

たぶん内田樹さんは構造主義の入門書のような位置づけで書いたのでしょうが、
私に言わせれば入門書の入門書が必要なのではないかと思えます。

わずかでも私のこのブログを読んで
構造主義という考えにに興味をもって貰えたら、と思います。 

明日書く気力があれば

明日は親族の基本構造です。

レヴィ=ストロースって人は本当に面白い考えをする人なんだから。

今日も書いちゃうか レヴィ=ストロース

2008年10月16日 19時23分16秒 | Weblog
何から話を進めるべきかとても悩ましい。
結論はもうすでに言ってしまったのですが、

忘れてしまった方のためにいいますと、
「人間の本姓は贈与にある」これがレヴィ=ストロースの結論です。
つまりそれは「隣人愛」や「自己犠牲」といったものが
人間性の余剰ではなく、まさにそれこそが人間性の起源だと
レヴィ=ストロースは言っているのです。

ここに至るその過程がとても斬新であり、
さらには有無を言わせぬ迫力があるのです。

なぜ彼(毎回レヴィ=ストロースと書くのはかったるいので
以後彼でお願いします)は人間の本姓は贈与にあると見抜いたのか。

それを知るためには彼の学問的方法をまず知らなければなりません。

面倒くさい

そう、確かに面倒くさいのですが、ここを省いてしまうと彼の
構造人類学の驚嘆すべきアイデアに触れることができないのです。

音韻論あるいは音素論とも言いますが、彼はまずここに目をつけたのです。

音韻論とは言語として発せられた音声が
他の言語音とどのように識別されるのかを研究する学問です。


ちょっと疲れました。

また明日書くことにします。

たぶん書きます。

このごろ気分も上向いているのでたぶん大丈夫です。

そういえば、つい最近妻が携帯を買い換えまして、
新しい機能を嬉々として話すんです。
そういう妻を見ていると本当にかわいく思えます。
いい歳なんですけどね。

それではまたあした。

そんなこんなでレヴィ=ストロース

2008年10月15日 20時08分49秒 | Weblog
レヴィ=ストロースを持って構造主義極まれり、
といっても過言ではありません。

これまでミシェルフーコー、ロランバルトを見てきて
私たちの出発点が構造のうちにある、ということを知りえました。

レヴィ=ストロースはさらに掘り下げます。

なんと彼は親族間にある感情までも構造によって成り立っているというのです。

私たちが自然で内発的だと信じている感情
(親子、夫婦、兄弟姉妹のあいだの親しみの感情)が実は
社会システム上の役割演技に過ぎず、社会システムが変われば
親族間に育つべき標準的感情が変わってくるというのです。

な、なんですと

そんな馬鹿な。

そう思われる方がほとんどかもしれません。

しかし私はものすごく合点がいったのです。

それは私と私の妻が持ちうるそれぞれの親に対する感情が
まったくもって違っていたことに由来します。

私は子供のころ、学校から帰ると真っ先に母親のところへ行き
その日学校であったことをこれでもかと母に話して聞かせていたのです。
もちろん母も私の話を楽しんで聞いていました。


しかし私の妻はそのようなことを一度足りともしたことがないというのです。

そればかりか、いつも起こってばかりいる母親が大嫌いだったというのです。
一時的にではないのです。基本的なところで嫌いだったというのです。

そんなことってあるのか?

私にはにわかに妻の言葉を信じられなかったのです。

私はそれまで、私が持っている母への感情はまさしく自然で内発的な感情であり、

誰もがそのような感情を持っているものだと思っていたのです。

それがこのレヴィ=ストロースを読んだとき
うぎゃっと声を上げてしまうほど私は妻のその感情(母親に対する感情)
に合点がいったのです。


明日また書きます。

いや、分からない。

とにかく近いうちにまた書きます。


書く気になった

2008年10月14日 19時46分23秒 | Weblog
レヴィ=ストロース 「終わりなき贈与」

これを読み終え、ここに書かれていることを理解したとき
私は本当に打ちのめされてしまいました。

ミシェルフーコーもロランバルトもそれはすばらしいものでしたが、
このレヴィ=ストロースを前にすると霞んでしまいます。

実存主義にまみれていた私の思考は完全に打ち砕かれ、
完璧に構造主義のとりこになってしまいました。

私はこれを理解したとき、あまりの興奮にあろうことか妻にその内容を
とうとうと語ってしまいました。それがどれだけつまらない行為であったかは
説明するのもわずらわしいほどですが、簡単に言えば
「あーもーわかったから、それで今日何食べたい?」
というものであったといっておきます。

まったくもって子ども扱いじゃないか。

腹を立てても仕方がありません。そんなのはぜんぜん建設的じゃない。
だけれどもこの知りえた「知」を誰かと共有したいという欲求は満たされない。
あー、この欲求を満たしたい。

それは言い換えればこの知りえた「知」を誰かに与えたいのだな。
何しろレヴィ=ストロースによれば贈与こそが人間性の起源であるのだから。

次回からレヴィ=ストロースの本題に入りたいと思います。

ちょっと長く休んだようです。