イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

やはり買ってしまいました 内田樹著「こんな日本でよかったね」

2008年08月23日 16時50分38秒 | Weblog
私の味覚は相当に子供っぽいのです。
酒のあてになるようなものはトンと好みません。刺身も食べられますが、好んでは食べません。食べても一年に一度あるかなぁ、という程度です。以前にもかきましたが魚卵、特にいくらなどは口に入れた瞬間に吐き気を感じるほど嫌いです。

好きな食べ物はお菓子。特にグミ。グミっておいしいですよね。あの触感、最高ですね。

私の味覚は確かに子供っぽいことに間違いはないのですが、これでいいのです。


さて、やはりといいますか、買ってしまいました。内田樹著「こんな日本でよかったね」。

いい。すごくいい。
数ページ読んだだけで、グググと引き込まれました。特に「寝ながら学べる構造主義」を読み込んでいたこともあり、読める読める。まさにバルトが言っていたように「読むことによって読める主体へと変わっていった」ようです。
何を言っているのかといいますと、何を言っているのか分からないから読めないのではなく、読まないから読めないのですよ、といっているのです。

読める主体になるためには読まなければならないのです。そのような「構造」になっているのです。

なんだか構造主義早くも再開の予感ですね。

再開の時期

2008年08月20日 21時28分05秒 | Weblog
このごろの天候の変化といったら、それはもう尋常じゃないですね。あっという間に雲が出来上がりそれと同時にピカっ、ドカーン、ゴロゴロゴロ、ピカ、メリメリ、バキバキバキ、ドっガガガガガガーン。ですからね。

ンもう怖い。

これも地球温暖化のせいなのでしょうか。

まー、それにしても気楽です。書きたいことを気ままに書くのは気楽です。
寝ながら学べる構造主義を私の言葉で解説するという行為は想像以上に大変でした。もちろんいずれまた再開するとは思いますが、まだ当分はいいかなとおもっています。

気楽なことばかりを書き続けるというのもやはり飽きるんですよね。そのときがきたら構造主義を再開します。

飽きた

2008年08月19日 19時05分20秒 | Weblog
このごろ小説を読んでいなかったのですが、「しろばんば」をきっかけに
また読みたくなりました。小説にはまっていくのも悪くないですよね。

手始めはやはり井上靖でしょうか。それとも山本周五郎の虚空遍歴かな。

宮本輝という手もありますよね。または一度も手にした事のない作家のもの。

それもいい。

とにかく無性に小説を読みたい。小説の中にぐいぐいと引き込まれていきたい。

何がいいだろう。なやむなぁ。

ちょっと構造主義から離れよう。

飽きた。

飽きたと言えば、私の母がですね、今年の春に携帯を持ったのですよ。

メールにはまりましてねぇ、一日のうちに何回もメールをするのですよ。

でもそれもふた月もたたぬうちにパタリと止みましてね、どうしたものかと
聴いてみたらですね、

「飽きた」

飽きるほどにメールをし、もう書くこともなくなり、猫が日向ぼっこしてるだの、チューリップの芽が出ただの、気がつけばどうでもいいような事ばかりで、それに電話をしなくなり、人の声を聞くことがなくなった。というのですよ。

そうかもしれません。

お盆休みとってました

2008年08月18日 18時44分41秒 | Weblog
お盆休みをとりまして妻の実家に行ってきました。仕方がないこととは言え
お盆は混むよねー。疲れるよねー。言うよねー。

あとですね、

いい本を見つけましたよー。もちろん内田樹さんの本です。

「こんな日本でよかったね 構造主義的日本論」

まだ買ってはいないのですが、間違いなく買うし、間違いなく

このブログにおいて説明をすることでしょう。

それからですね、

妻の実家で久しぶりに「しろばんば」を手にしてみたのですが、

あれはいいですね。

やはり井上靖は避けて通れませんね。あと山本周五郎ね

単なる愚痴かな

2008年08月12日 19時57分04秒 | Weblog
もう書けない。書く気力がない。

つい最近いいものを見つけました。

種ぬき干し梅

うまいですよ。コンビニで100円くらいでうってます。

あとこのごろはまっているのが、マウントレイニア。

缶コーヒーより若干おいしいです。値段もちょっと高め。

それからですね、NHKにひと言。

ダーウィンがきたはできるだけ放送して欲しいです。

あれ楽しみなんです。

あのあとの篤姫は見ていないのですが、ダーウィンが来たは

毎週楽しみにしているのですよ。

今週何かなーっと思ってチャンネル回したら、

オリンピックやってはる。

かず少ない私の楽しみを、、、、。

どうしてくれよう。

頼みましたよ。NHKさん

これくらいでいいや。ね、今日はね。

読み込むことが大切です

2008年08月11日 19時44分23秒 | Weblog
どうでしょうか、構造主義。難しいでしょうか。
これでもかなり咀嚼した言葉に換えていると思うのですが。

難しくて、少々飽きたかもしれませんね。

でも、どうかついてきて下さることを期待します。

なぜかといいますとね、難しいものを読み込むことによって
その難しいものを理解していけるからです。

私とて一度読んだきりで構造主義を理解したわけではないのです。
何度も何度も読み返すうちに、私が経験的に知ったものと、書物に
書かれているその内容が織り上げられ、何度目かの時に突然もやが晴れ
何であるかがわかったのです。

それは突然訪れるのです。

とバルトも言っています。

あのですね、

これは私が私に強いていることなので、言い訳するのもなんですが、

仕事を終えた後に、さらに脳みそを酷使して
構造主義をまとめるというのは言葉に言い尽くせないほど大変な作業です。

だからたまにはこんなふうに中休みを取るのです。

たまにじゃないか


バルト 2

2008年08月10日 07時49分52秒 | Weblog
エクリチュールです。
聴き慣れない言葉だと思います。アバンチュールとか、そういう系統の
言葉かなとも思います。(思わないか)
記号の次はエクリチュールかぁ、そう思われるかもしれませんが、
どうかやけにならずにお読みになることを期待します。

私たちが言語を用いる場合、ある「不可視の規則」に従って運用していると
言うことは以前にも述べました。それこそがまさしく構造主義の出発点
でもあるのだと。
バルトはまず、この「不可視の規則」に二種類のものがあると考えたのです。
それが「ラング」と「スティル」です。
ラングとは平たく言えば国語のこと。
私たちが日本語を使うとき、私たちは日本語の文法に従い、日本語の発音をし、
日本語の語彙を持って、日本語として通じる言葉遣いをしなければなりません。
つまり日本語の持つ感性に知らず知らずのうちに規定されています。

「ある時代の書き手全員に共有されている規則と習慣の集合体」
これがラングです。

スティルとは言語感覚のこと。
これは一人ひとりが持ち合わせている言葉に対する「個人的な好み」
のことです。話すときであれば速度や、リズム感、韻律、息遣い、
また書くときであれば文の息の長さ、ひらがなと漢字の度合い、余白など、
このようなものは、まさしく「個人の好み」という以外に
説明の仕様がなく、私たちの「書く言葉」、「話す言葉」の全てに指紋の
ようについて回ります。
これも言葉を使う際に知らず知らずのうちに私たちを規定するものです。
わかりやすい例を出すならば、中島みゆきの詩にどんな曲をつけたとしても、
そこに中島みゆきを見つけ出すことができるでしょ。
そのような言葉に対する息遣いは、意識して変えられる、というものでは
ないですよね。それがスティルです。

さあ、私たちは意識することのない二つの「不可視の規則」に
規定されていることはわかりました。
しかしもう一つ、私たちをぐっと規定してくるものがありますよ。とバルト
は言うのです。

それがエクリチュールです。

ラングとスティルは不可視の規則ですから、それはもはや意識的に変えられる
ものではありません。しかし、それでもなお言葉を使うときに、
私たちはある種の「言葉遣い」を選択することが許されます。
もう一度言います。
不可視の規則ともうひとつ、ある種の「ことばづかい」を選択することが
「許され」ます。
この言葉づかいがエクリチュールです。

個人の好みによる言葉遣いであれば、それはスティルじゃないのですか、と
思われるかもしれませんが、エクリチュールとスティルは違います。
エクリチュールとは集団的に選択され実践される「好み」です。
それは無意識ではなく、「意識的」になされるのです。
たとえば、ある日を境に男の子が一人称を「ぼく」から「おれ」に
変えたとします。もちろんそれは意識的に、自主的に変えたものです。
もちろん「おれ」という言葉遣いは少年の発明ではありません。
社会集団の中ですでに採用されているものであり、男の子は、
ただそれを丸ごと借り受けたというだけのことです。

つまり、それまで「ぼく」という言葉遣いが主流であったものが、
小学5年生になり「おれ」という言葉づかいが主流になってきたので、
男の子も「おれ」を採用した、という程度のことです。

その程度で採用された「おれ」ですが、採用されたが最後、
それはもはや人称の変化だけにとどまりません。たちまちのうちに
男の子は全ての立ち振る舞いを「おれ」という響きに変えていくのです。
発生も、語彙も、イントネーションも、髪型、嗜好品、生活習慣、
身体運用に至るまで、「おれ」という一人称に相応しくなるよう「統制する
無形の圧力」を感じずにはいられなくなるのです。

私たち自身を振り返ってください。荒々しい言葉を採用したが最後
私たちは荒々しい立ち振る舞いに支配されてしまう。その逆も然りです。

「私たちは誰しもが、自分の使っている語法の真理のうちに、
すなわちその地域性のうちに絡めとられている。私の語法と隣人の語法
の間には激烈な競合関係があり、そこに私たちは引きずり込まれている。
というのも、全ての語法は覇権を争う闘争だからである。だから、ひとたび
ある語法が覇権を手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、
無兆候的な《偏見》となる。政治家や官僚が語る非政治的な言葉、新聞や、
ラジオや、テレビが喋る言葉、日常のおしゃべり言葉、それが覇権を握った
言葉なのだ」

私たちは自分が属する集団や社会的な立場によってさまざまな言葉を
使い分けています。そしてひとたびある語法を選んだ途端に
自分が選んだ語法が強いる「型」にはめ込まれてしまうのです。

軍人は軍人のエクリチュールで語り、営業マンは営業マンのエクリチュールで
語る。そして採用されたその言葉遣いは、その人の行き方全体をひそかに
統御している。

知れば知るほどぞくぞくしてきませんか、
あなたをあなたたらしめているものは、あなたが使っているその言葉の中にある。

なんですと、いま何いうた?

なんだか決定的なものに足を踏み入れてしまったような気がしませんか、

バルト、もう少し続きます





バルト 客観的言葉づかいが覇権を握る 1

2008年08月09日 10時33分36秒 | Weblog
今日の題名は、内田建さんの言葉をそのまま引用しました。
バルトを語るにおいて、これ以上しっくりと馴染み、
釘で板を打ち付けるかのごとく、ぴったりとはまる言葉もないなと、
思えたからです。

バルトの仕事、それは文学テクスト(作品)、映画、宗教、音楽など、
あらゆる文化現象を「記号」として、読み解くというものでした。
そこで、私たちが一番最初に知っておかなければならないことがあります。
「記号」とは何ぞや、です。
記号と聞いて私たちが真っ先に連想させるものは、その記号を見れば
世界万国共通に「こんなことを言っているのかな」と連想されるあるカタチの
ことだと思うのではないでしょうか。
しかしここで言う記号とはそのようなものではありません。
たとえば、トイレのドアに記されている○と▽で示された模様。
あれを見て私たちは、ここが紳士用のトイレなのだなとわかりますよね。
でもあれはここで言う記号ではないのです。

ここで言う記号とは、○と▽ではなくて、「紳士用」という文字のこと。


「記号」とは、ある「社会集団」(たとえば日本国)が制度的に取り決めた
「しるし」と「意味」の組み合わせのことです。そこにはいかなる自然的、
内在的な関係もありません。つまり記号には、「人為的な取り決め」
以外のいかなる自然的な結びつきも存在しません。
もっとざっくり言ってしまいましょう。
記号とは。、たとえば「文字」のことです。「しんしよう」と書かれた文字
を見て、「あー、男はここで用をたすのだな」と日本人(ある社会集団)
なら誰でも理解できるでしょう。「しんしよう」と「用をたす」という
結びつきは人為的な取り決め以外にはない。つまり、それを見ても
日本語を知らない外国人にとってはまったく意味をなさない。理解不能。
このでたらめさ、これこそが記号です。

ちょっとしつこく説明しましたが、ここをしっかりと抑えておかなければ
バルトの核心に触れることができません。

これで大体の下準備は整いました。それではそろそろ本題に入っていきましょう。

「エクリチュール」と「作者の死」

と思ったのですが明日にします。

バルト、もう少しお待ちください

2008年08月05日 19時58分39秒 | Weblog
バルトを早く語りたいのですが、もう少しお待ちください。
まさに目からうろこ、何か人間の本質にかぎりなく近づけた気になります。
だからこそもう少し私の中で吟味したいのです。

とにかくこのバルトとレヴィ=ストロースは知れば知れほど
ここに生きるヒントがあるのでは、と思えます。
間違いありません。

私のブログを読んでくださっているごくごく小数の皆様も
もしよければ、「寝ながら学べる構造主義」を買って、
この二人だけでも読んでくださればと思います。

できるだけ早く要約していきたいとは思っています。

夏ばてには気をつけよう

2008年08月04日 20時05分19秒 | Weblog
疲れた。疲れて書けない。まぶたが重い。
やる気は満々なのです。
でも疲れて脳みそが思うように回転してくれないのです。

足の裏がだるい。

今日は足の裏にサロンパスでも張って早々に横になるとします。

でも実はこれすると足の裏が気になっちゃってかえって眠れないんだよな。

ばかだ。もうどうしようもないくらい頭が働いてくれない。