イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

夫婦喧嘩

2009年02月26日 19時30分41秒 | Weblog
基本的なところでは夫婦仲はかなりいいほうではないかと思います。

でも、ごくまれに夫婦喧嘩をすることがあります。

正確には、僕が一方的に妻を言葉によって打ちのめします。

その原因のほとんどは妻の僕に対する無関心です。

僕は空気のような夫婦関係と言うのを認めません。

「なくてはならない存在だけど、いつもは意識しない」
こんな夫婦関係なら僕は猶予なく終わらせてしまいたい。

夫婦と言うのは強い安心感の中でも刺激を感じあえるんです。

でもひとたび無関心になると幸福感を感じさせる刺激がまったく
感じなくなってしまう。

人間関係の中にあって、無関心と言うのは何よりも人を傷つけます。
何よりもです。無関心より嫌いのほうがまだましです。

学校における究極のいじめを知っていますか?

それはクラス全員が無視することです。この苦痛にはほとんどの人が耐えられない。
誰か一人でも自分に関心を寄せてくれる人がいれば人は生きていけるのです。

だから、妻が僕に対する関心をなくしかけているとき、僕は烈火のごとく怒ります。

ぼくは口が達者なので、妻の感情的な言葉一つ一つを理論的につぶし、
逸らされた会話を元に戻し、最終的にはぐうの音も出ないほどに
妻を打ちのめします。

暴力的な言葉は一切使いません。もちろん身体的な暴力も用いません。
声を荒らげることもありません。

ただきびしく妻の吐く言葉の矛盾を理論的に構築された言葉によって
駆逐していくのです。


でも結局最後の最後は僕が謝って夫婦喧嘩が終わります。

この意味分ります?

夫婦と言うのは奥が深いんです。

言っておきますが、夫婦喧嘩はごくまれにです。
年がら年中しているわけではありません。

一年に一回、もしくは二年に一回あるかないかです。

そのごくまれなことがあったのでここにしたためました。

もちろん今は一件落着です。

おどろおどろしいドラマ

2009年02月24日 21時22分23秒 | Weblog
フルハウスって一体何回再放送してるんでしょうね。

あの人たちはいま何をしているのでしょう。

大草原の小さな家のようにこれでもかっていうくらいに
続いていたわけではないのに、やたら人気がありますよね。



えーっと

今、ギャオの動画でツインピークスを見ることができます。

あのツインピークスです。

実はツインピークスにハマってしまった口なのです。
ビデオ屋さんで借りていたときは早く犯人を知りたくて、

毎日足繁く通い、レンタル中の札を見てはがっかりすること暫しでした。

もちろん今ギャオの動画で見返しているのですが、

どうやら若かりし頃に見たあのドラマの見方は間違っていたようです。

あれは推理ドラマではなくて、もっと言うと犯人などあまり関係がなく、

そうではなくて、あのドラマはあんなど田舎でさえ人間の業の深さがぶつかり合い、
だましあい、偽りあって、うわべだけの幸せをさも本物のように見せかけて
生きているさまを見せ付けるために作られたものだとおもえます。

それをさも推理仕立てにしているに過ぎません。

出てくる人出てくる人、どれもこれも癖があり、何か濁ったものを感じさせます。

もちろん、またハマってしまいました。

よくぞあんなドラマを作ったものです。
日本では作れないでしょうね。

どうも筆がいまひとつ、、、

2009年02月23日 20時24分35秒 | Weblog
筆ののる日とのらない日がありまして、

今日はさしずめ後者に当たります。

書くことがちっとも思い浮かばないのです。

頭の中では色んなことを考えているのです。

小学校における平等概念のおかしさとか、
殺伐とした人間関係のこととか、
脳にいいことは何だとか、

いろいろ考えていはいるのですが、
どうも筆がのりません。

と言うことで今日はこれにて、

さようなら

フーコー万歳

2009年02月22日 10時27分30秒 | Weblog
金曜日の雨の日、本当に指がちぎれるかと思いました。

雨の中原付で出勤したのですが、

言葉では言い尽くせないほど指がかじかんで、
泣きたいような、もだえ苦しみたいような、
どうしようも表現のしようのない、辛さでした。

それでは今日のお題です。

それから、あれうまいよ。アラブのお菓子。
日本に売ってたら即買いますね。

ではどうぞ、

先日私は改めてフーコーの偉大さにしてやられてしまいました。

そして、あれほど構造主義を勉強したと言うのに、
いつしか、また私は私の価値観の中に全ての正義を見出そうとしていたことに
気がついたのです。

それはですね、

竹島における韓国側の対応をyoutubeで見たから。

私は何も韓国の態度を非難しようとしている訳ではないのです。

お互いの歴史認識はまるで違い、お互いのことを思っている感情も
まるで違っているのだ、と言うことをいいたいのです。

とかく私たちが陥りやすい過ちは、正しいと思い込んでいる価値観が
世界共通のものであろうと推測してしまうことです。

韓国の小学生たちがありありとした憎悪を持って
日本に対して敵意をむき出しにしながら
それを絵にしたため、さらにはその絵を駅に張り出し、
それが公然と認められる行為として、人々に認知されている
そのさまをyoutubeで見たとき私は愕然としました。
(この国において日本を非難することは、正しい行為のたぐいになるのか?)

私の思いと、韓国の人たちが日本に向ける思いにはこれほどの開きが
あったのかと、本当に打ちのめされてしまいました。

この動画を見たとき、

私の価値観をまず括弧の中に閉じ込めて
韓国の歴史を知っていかなければ、
なぜ日本に対してあれほどの憎悪をもって、
果ては教育の現場でまで、日本に対する
憎悪の教育が行われるのかを理解することは
できないなと、痛感させられました。

もちろんフーコーを学ばなければこのような発想には至らなかったでしょう。

たぶんあの動画を見たときも、まったく違う感情を持ってしまったことでしょう。

やはりフーコーはすばらしい。


大いなる甘党

2009年02月19日 19時10分23秒 | Weblog
僕は自他共に認める甘党です。

甘けりゃなんでもいいんかい、と言われるほどの甘党です。

アラブのほうのお菓子で砂糖と油をこねくり回し、
それをナッツに絡めたような、極め付けに甘いお菓子があるのですが、

私はアラブ人か、と自分を疑うほどにはまりましたね。

私にはうまかった。

妻はとても食べれない、と言っていました。

どうですか、

比較対象は妻しかいませんが、私の思うところでは、
7割以上の日本人が、

「おえーっ」と吐き出してしまうのではないかと思います。
それくらい甘いのです。

これほどの甘党ですから、

食事の後には必ず甘いデザートがなければなりません。

饅頭とか、クッキーとか、とにかく最後の最後には
甘いものでしめたいのです。

もちろん今日も頂きました。

今日は貰いもので薩摩蒸気屋の「かるかん饅頭』と「かすたどん」。

とても満足です。

「かすたどん」おいしいですよ。

一度お試しあれ。

ディスプレーをバラバラにしてやった

2009年02月18日 20時57分36秒 | Weblog
今日僕は壊れてしまったソニーの純正のディスプレーを
ドライバーを使い、全てのネジをはずしバラバラにしてやりました。

ディスプレーは幾重にも重なり合ったぺらぺらのビニールシートと
分厚い一枚のプラスチック製の板でできていました。

それは僕の想像をはるかに超えるつくりでした。
(あたりまえか)

バラバラになったディスプレーをまじまじと見ながら、

「俺の言うことを聞かんからこういうことになるのだ」

そういってやりました。

あれほど音の良いスピーカーは
以外にもちゃちくて、

これまた驚きでした。

これでもう、まったくもって純正のディスプレーへの
未練はなくなりました。

バラバラになったディスプレーを見ながら
心はいつになく晴れました。

重松清ってこんなんだったっけ

2009年02月17日 20時56分32秒 | Weblog
断っておきますが、僕は重松清のファンです。

「疾走」

本の装丁からしてこれはタダモノではないかも知れぬと言う
読者ならではのワクワク感を駆り立てられました。

ブックオフで上下巻合わせて二百十円で売られているのを見つけたときは
狂喜乱舞しました。
(ファンと言うわりにはブックオフかい)

高鳴る期待を抑えながら僕は本を読み始めました。

そうして100ページほどきたところで読むのをやめてしまいました。

ひと言でいうと、この本は神の目目線で書かれています。

入り込めないのです。

主人公に感情移入して入り込もうかと思うと、
すーっと神の目目線の文章が現れて
せっかく入り込んだ感情から引きずり出されてしまうのです。

簡単に言いますと、

事の次第を、まるで箱庭で起きている出来事のように
覗き込んでいる語りべがいて、
その語りべにせっかく入り込んだ感情を
あなたも物語を除いているうちの一人ですよ、と言わんばかりに
本当に、すーっと現実に引き戻されるのです。

がっかりです。

こういう書き方だってあるとは思いますが、
僕には合いません。

仕方ない、口直しに流星ワゴンをもう一度読み返すとしますか。

あとけん玉やろうっと。

それでは、チャオ

おならのついでに、、、

2009年02月16日 19時03分43秒 | Weblog
おならのついでに、我知らずと言いましょうか、我の意思とは関係なく、

まったく予期もしていないのに、
シューっと水っぽいものが一緒に出てきてしまったことはないですか。

ぼくはある。

あるったらある。

今日がその「ある」にあたります。

会社に行ってまもなくでした。

一瞬にして顔面蒼白、とにもかくにもトイレに駆け込み

ズボンを下ろし、下ろし、下ろし、

そんなときに限ってチャックが引っかかったり、ベルトがカチャカチャと
うまくはずせなかったり、

「あー、だからー」

なんて心の中で叫んでみたりして、

ようやく全てを下ろしきり中を覗いてみると、やはり。

なんだか朝から絶望的な気分になりますね。

一瞬ですが、全てを捨ててどこかへ行ってしまいたくなるほどです。


パンツの中をまじまじと眺めていると、徐々に現実へと引き戻され
さてこれからどうしたものかと思案にくれます。

思案にくれながらも、手だけは勝手にトイレットペーパーをつかみ、
これでもかと言うほどの紙を引きずり出して

汚れちまった僕の世界、ういた話などなーい、
なんて小声で歌いながら本当に汚れた部分を
ガシガシと拭いていたりするのでした。

どーする、どーする。

どーすんのよ。

頭をフル回転させながら出た答えは二つ。

とにかくきれいにきれいに拭きまくって、
今日一日これでやり過ごしてしまう。

もう一つは

コンビニで新しいパンツを買って
今はいてるものを捨ててしまう。

コンビニだな。

解決策は決まったのですが、僕にも羞恥心と言うものがございまして、

こんな朝からパンツを買ったら、いかにももらしたみたいじゃないかとか、
汚れたパンツはどこに捨てたらいいのかとか、

それはもう、

解決策が決まってからも頭を悩ますことが次から次へ押し寄せてくるのでした。

結局汚れたパンツはコンビニの袋に入れて持って帰りました。

かばんの中に汚れたパンツが入っているのかと思うと
決して見つかってはならぬと言う思いで、

今日一日ドキドキでした。

今日はもうくたくたです。こんなことで。

それでは、シャローン

言葉と心について

2009年02月15日 13時08分53秒 | Weblog
「言葉は心そのもの」と言うようなことをどこかで書いた記憶があります。

書くことは書いたのですが、
どうも舌っ足らずであったように思えてならないのです。

だから今日はそのことに触れてみようかな、と思っているのですが、

でもですね、それにはまず、「再帰」と言う言葉の意味を説明しなければならず、
それはなんとも面倒なことだな、とも思っているのです。

でもやってみましょうか

再帰とは「入れ子構造」の文法のことです。

私たちは、私たちが思う以上に結構複雑な文法を巧みに使っていたりします。

「あの子はきっと僕のことが好きなんだ」と言う文章を正確に書けば、

「私は、あの子は私のことがすきなのだと思う」と、このようになります。

この文章の文法を説明すると、「私」「あの子」と言う主語と、「すき」
「思う」と言う述語が、主語主語、述語述語と言う順番で並んでいて、

さらに詳しく説明すれば、「私は思う」と言う大きな主語と述語のカッコの中に
「あの子はすき」という主語と述語が組み込まれた「入れ子構造」を
なしていることが分ります。

わかります?

このような入れ子構造をした文法のことを「再帰」というのです。

この程度のことは日常的に考えたり喋ったりしているので、
改めてどのような文法になっているかなど、気にも留めないし、
また、いちいち気に留めていたら、会話にもなりません。
それくらい当たり前に使ってはいますが、説明するとなると
ちょっと面倒くさいものなのです。

しかしこれは実のところ、人間にしかできない複雑な表現方法なのです。

音を使ってコミュニケーションをする生き物は多々あれど、
再帰と言う方法を用いて表現できるのは人間だけなのです。

先ほどの文章を読んでみれば分りますが、「私」は「あの子」の視点に立って
「私」を評価しているのです。

つまり再帰とは視点が他者にあると言うことです。

これはつまり、私は私を客観的に見れると言うことです。
私は私の後頭部を見ることができる、と言うことです。

三歳くらいの子供はまだ文法がおろそかなので再帰を使えないのです。

三歳くらいの子供の行動を見てみれば一目瞭然です。

自分の「いま」の行動を客観的に見れないのですから、
情動的なところが優先されてしまうのです。

客観的に見れると言うことはつまり、

私はなにものであり、何のために存在しているのだ、
と私自身に問えると言うことなのです。

私たちはあらゆる場面でこういう問いをするでしょう。
夫婦間や、地域や会社など所属しているものの中で、
私たちはこういう問いを自分に問いかける。

その回答を示すのは「言葉」なのであって、情動的な部分ではない
と言うことです。

言葉がなければ、私が私に、そう問いかけることは不可能でしょう。

猫がニャーニャー言いながら、実のところ、

「吾輩がなにものであるかと言うと、人間に猫と名づけられたものである
。名前はまだついてなく、人間社会におけるわれわれの存在意義は
癒し、といったところかな」

と言っているようには私には見えません。

自分の存在意義を追及している生き物を私は見たことがありません。
人間以外にはね。

言葉がないということは、自分を客観視することができないと言うことであり、

それはつまり、自分の性格を省みることも、おしゃれをすることも、
その他一切の人間的行動をすることができない、と言うことなのです。

さて、ここから先は構造主義のソシュールや、ロランバルトを
読み返していただければと思いますが、

簡単に言うと、

どの言葉を使うかで、「私の心」が決定されるということです。

結論

言葉は心そのものです。

もう一つの結論

人間の起源とは言葉を取得したときであると言うこともできます。

まだ書き足りないような気もしますが、この辺にしておきましょうか。

久しぶりに長くなってしまいました。

それでは、サラマレイコム

手動式充電ラジオ

2009年02月14日 15時05分04秒 | Weblog
こんなに天気のいい日はしっぽりと家の中に引け込んで
ひたすら本を読む。どうですか、この天邪鬼的発想。

もちろん雨の日はその逆です。

鼻歌で「雨にうたれて」をフンフン歌いながら
どんよりとした鉛色の町を軽やかに散歩する。

妻にへそ曲がりとなじられ、子供はぶーぶー文句を言い、
矢のような責めつける視線を浴びながら、僕は鼻歌を歌う。

最高だ。

考えるだけでうっとりしますね。


頭の中だけの世界ですけどね。

僕のことを変わった人だといわないでください。


さて、今日はですね、手動式充電ラジオのことを。

昨今に起きましては、防災グッズなるものがよく売られていますが、
その代表格の一つはやはりこれ、手動式充電ラジオでしょう。

ラジオと懐中電灯が一体となっていて、
側面に充電用のハンドルがついていて、
一分充電するとラジオが何分聞くことができます、
などと言う説明書が添付してある、
誰でも一度は目にしたことがあるであろう、
そして少し抵抗感のあるハンドルを回したことがあるであろう、
あれです。

あのですね、

開発者は一分間回し続けたことはあるのでしょうかね。

ぼくはある。

なぜならこの前景品で貰ったから。

感想ですか?

辛かったぁ、

あれを一分間回し続けるのは意外と大変ですよ。

女子供には無理だな。

そう思いました。

女子供を見くびっているでしょうか、

意外と簡単にやってのけるかもですね。

今日びの女性は本当に強いから。

男の地位は地に落とされ、蔑まされるばかりです。

それでも頑張るんです。

それでは、アディオース。