イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

構造主義の源流マルクス2

2008年04月30日 18時09分52秒 | Weblog
私なりの解釈では構造主義とは思考を規定しているものに対する徹底的な探求ではないかと思います。
このようなものの源流として、3人をあげることができます。マルクス、フロイト、ニーチェです。
まずはマルクス。彼が目をつけたものが階級です。階級こそが思考を規定していると彼は見たのです。だったらどのようにして己を知るのか、どのようにしたら己に行き着くのか、それは自己自身からの乖離という視点を通してであると彼は言うのです。だとするならばどのようにすれば乖離できるのだろうか、それは思弁的な方法によるのではなく、生産、つまり労働に身を投じることによって、達成される。労働によってはじめて「私」というものが決定付けられるのであり、労働の前に「私」と言うものが決定されることはないということです。
たとえば、あなたは一度も自分はうそつきだと思ったことのない人間だとします。しかし、あなたとかかわった全ての人があなたのことをうそつきだと思ったとしたら、あなたが思うあなた自身というものはあなたにかかわった全ての人が感じたあなたではないということです。それはつまり、本当のあなた自身というものを知りたければ、他人の中に身を投じることによって、あなた自身を風景として眺めることができたときにこそ知ることができるということです。
それがつまり、労働に身を投じることによって、作ったものが他人にさらされることによって、己を知るということです。
これが私のマルクスに対する解釈です。
まだ難しい?むずかしいですね。
それではこれではどうですか、
本当のあなたというものはあなたが思っているものにではなく、妻の言葉の中に、子供の言葉の中に、勤めている会社人たちの中にこそある。妻に見えているあなたの姿こそ、子供に見えているあなたの姿こそ、会社の人たちに見えているあなたの姿こそが本当のあなたなのではないですか。とマルクスは言っているのですよ。そんな風に私は解釈しました。
そして構造主義の源流といわれるマルクス、フロイト、ニーチェをざっくりと規定するならば、こういうことになるのだと思います。
私は私を規定しているものの正体を知りたい。どうしたら知ることができるのだろう。そうして考えた末にマルクスは「階級」、フロイトは「無意識」、ニーチェは「嫌悪する思想」のなかから、各々その答えを探し出そうとした、ということです。ものすごくざっくり言えばそういうことです。
マルクスは今日で終わりです。明日からはフロイトをと思っています。

お詫びです。

2008年04月26日 07時08分24秒 | Weblog
おわびです。私事で恐縮なのですが、29日まで出かけなければならない用事ができてしまいましたので、その間ブログの更新ができません。
もちろんこのブログを読んでくださっている方もお気づきのこととは思いますが、今書いている「構造主義」も少々消化不良気味です。ですので、この間さらに深く深く読み込んで、ほぼ消化しきれたであろうものを、親鳥がヒナに食事を与えるがごとく、読んでいるみなさまにとっても、読んだ直後にすっと消化できてしまえるようなものが書けるようにしようと思っています。
それでは、私のブログを読んでくださっているマイノリティの中のマイノリティのみなさん、29日以降にまたお会いしましょう。
それまでさようなら

構造主義の源流、マルクス

2008年04月25日 20時56分01秒 | Weblog
さてマルクスです。そうあのマルクスです。どのマルクスと言って世界的に知られているマルクスといえばマルクス兄弟と資本論を世に記した経済学者であり、また哲学者でもあるマルクスを置いてほかにはおりません。マルクス兄弟のことを論じてみたいという思いもありますが、ここではそうはいきません。なぜならば構造主義の源流の一つであるマルクスといえば後者のマルクスをおいて他にはいないからです。
マルクスが切り開いた偉大なる功績は思弁的でしかなかった「懐疑」を哲学者自身の日常の生活に反映させ、生活を一変させ、取り巻く世界まで変えてしまったということです。マルクスは自分の思考や判断はどんな特殊な条件によって「成り立たせられているのか」、という問いを突き詰め、それを日常の生き方にリンクさせる道筋を最初に発見したのです。
マルクスが着目したのは「階級」でした。属する階級によってものの見え方が変わる。いわゆる「階級意識」というものです。ブルジョアとプロレタリアではその生活のあり方ばかりか、人間観や、世界の見え方そのものも違ってくる。これはつまり、「人間そのもの」または人間の普遍性といったものは否定し、退けるということを意味します。人間の個別性を形づくるのは、その人が「なにものであるか」ではなく、「何ごとをなすか」によって決定される、マルクスはそう考えたのです。つまり、「存在」することではなく、「行動すること」に軸足を置いて、人間というものを考察したのです。
ややこしいでしょうか。ややこしいですね。簡単に言いますと、あなたを形づくっているものは、人間に生まれながらに備わっている普遍的な人間性というようなものではなく、その時代や環境や、属した社会集団によるのですよ、といっているのです。そのような人間を形づくる要因の一つとして、マルクスは階級というものに着目したのです。人の個別性はその階級によって決まると。
今日はこんなところで、
明日もマルクスです。たぶんあさっても。


補足・・・・・まだ構想主義そのものに足を踏み入れたわけではありません。マルクスは言わば構造主義の生い立ちの「産声」あたりでしょうか。まさに源流です。この辺が構造主義の源かなというのがマルクスです。明日はヘーゲルの流れを汲むマルクス主義の真骨頂などを、と考えています。


構造主義、こういうことだそうです。

2008年04月24日 20時42分53秒 | Weblog
構造主義とはいかなるものかです。たとえば、今回のチベット問題にしてもマスコミでは必ず中国側の有識者とチベット側の有識者を出してきます。それは立ち位置が変われば見えてくるものも変わってくると言うことを重々認識しているからにほかなりません。もちろんそれはメディアを受け取る側にも共通した意識です。それは常識といってもよいでしょう。私たちが今常識と考えているこの意識こそまさに構造主義そのものだというのです。そしてこのような考え(構造主義)が常識として認知されたのは、今からおよそ40年前の1960年代ぐらいなのだそうです。
もちろん、私にとって自明なものが他者にとっても私と同じように自明なものであるのかという懐疑こそが哲学の出発点であるので、プラトンもデカルトもそのような懐疑から哲学を出発させているのです。しかしそれはもっぱら思弁的なものにとどまっており、そのような思索が哲学者本人の日常に反映されることはほぼなかったのです。
まだわかりづらいですね。
本の中から構造主義を端的に言い当てている部分をそのまま抜粋しておきます。
私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから私たちは自分が思っているほど、自由にあるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちはほとんどの場合自分が属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせれている」。そして自分の属する社会集団が排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の自律的な主体であると信じているけれども、実はその自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたものこそ構造主義だというのです。
わかりましたでしょうか。
明日は構造主義の源流の一つであるマルクスについて取り上げてみようと思います。


補足、、、、、思弁とは経験によることなく、思考や考えだけで真理に到達しようとすることです。

補足

2008年04月23日 21時42分03秒 | Weblog
なぜ明日説明するかといいますと、一つには私の頭の中で構造主義がまだこなれきっていないということと、あとひとつ、実はこのGOOブログは書いている時間があまりに長いと勝手にログアウトしてしまい、ようやく書き終えいざ投稿しようとすると「ログインしなおしてください」という画面が出てきて、長い時間をかけて書いたものが全てなくなってしまうということがあるためです。私の経験では少なくとも4回はそのようなことがありました。そのたびにかなづちでパソコンを壊してしまおうかなと思えるくらい腹が立ちました。そのため時間がかかりそうなときは二度、もしくは三度に分けて投稿しなおさなくてはなりません。それも面倒くさいでしょ。だから考え抜いたすえにやっと書面に起こせるようなものは書く前に考え抜いておかなければならないのです。つまりそういうことで構造主義の説明は明日なのです。

実はスケボー大好き

2008年04月23日 21時28分06秒 | Weblog
私はスポーツ観戦というものをほとんどしない人間なのですが、唯一食い入るように見てしまうものがあります。スケートボード、いわゆるスケボーです。年甲斐もなく好きなんです。もちろんスケボーをする歳ではありません。でもやってみたい。あんなふうにうまくすべる事が出来たら気持ちイイコトだろうと思うのです。スノーボードでもサーフィンでもなくスケボーなのです。どんなスポーツより一番魅力を感じるのです。特に本場アメリカの一流プロのすべりはスピード感満点で本当に迫力があります。
プチカミングアウトはこれぐらいにしてと、実は今、だいぶ前に読み終えた「寝ながら学べる構造主義」をまた読み直しています。まだはじめの数ページに過ぎないのですが、思うことは「人は忘れる生き物だ」ということです。まあそれはまた別の機会に触れることとして、やはりこの手の本は二度三度と読むべきだなと感じています。数ページしか読んでいないにもかかわらず目からうろことも思えるような発見があるのです。現代の私たちの思考方法というものは実はそれほど昔からあるものではなく、ここ二十年から三十年前に定着していったものだというのです。そして今の私たちの思考の核とでも言うべきものこそがまさしく構造主義だというのです。ではこの構造主義とはナンなのか、それは、明日説明します。

とてもいいアドバイスをもらいました

2008年04月21日 22時34分24秒 | Weblog
確かにテレビやラジオから流れてくるニュースには人を不安に陥れる、憂鬱にさせる要素がありますね。報道するものの多くは事件や事故など不幸なことばかり。どんな情報をチョイスしていくのかは私たちのほうに責任がある。とてもよいアドバイスをいただきました。ありがとうございます。

また休むかも

2008年04月20日 20時37分47秒 | Weblog
もしかしたら軽い鬱なのかも知れません。気持ちが落ち込むことが多くて、せっかく書き始めたこのブログですが、また長い休みに入りたくなりました。心が疲れました。心とはいったい何なのでしょうね。あらゆる膨大な知識の中から不に作用するものをチョイスしてくるこの心とはいったいいかなるものなのだ。疲れました。

テレビを見ない生活

2008年04月19日 20時06分35秒 | Weblog
この一週間ほどテレビを見ていません。もちろんテレビ本体はいつも目にしています。そういう意味で言えば毎日テレビを見てみているのですが、もちろんそういう意味でのテレビを見ていないということではありません。テレビを見ていないというのはテレビの電源をいれ、ブラウン管に画像を映し出し、それを意識的に見るという行為をしていないということです。このような回りくどい言い方をするとわが妻は決まって「はいはい」と一蹴します。しかし一蹴されることでくじける私ではありません。どれだけ妻に一蹴されようとも私はスタンスを変えません。そんなことではなかった。そうです。テレビを一週間も見ていないのです。しかし世間から取り残されたとか、話題についていけないとか、そのようなことは何一つなく、今のところテレビを一週間見なくても生活に何の支障もきたしていません。もちろん私は今回意識してテレビを見なかったのです。この一週間で私は決定的なことに気づきました。テレビに費やしている時間は自分の思う以上に多いということです。実際にテレビを見ないと時間が余るあまる。テレビを見続けたことで私自身が成長したといえることは何一つありません。無駄。テレビは時間の無駄遣いです。もう見ない。と今は思っています。もしかしたら見るかも。

恐々書いてみました。

2008年04月18日 19時30分06秒 | Weblog
先日科学博物館のことを少し書いたらなんと閲覧数が1300くらいになってしまい、そら恐ろしくなり、また少しばかりお休みしてしまいました。何しろこのブログは私の近況などを私のことを知るわずかばかりの人にむけ、いわば手紙がてらに書いているものなので、閲覧数が突然跳ね上がったりすると、なんだか社会に対してとても悪いことをしてしまったような、期待して訪れた人たちの思いをことごとく裏切ってしまったようなどうしようもないくらいの切ない気持ちになり、訪れた人たちのがっかりした顔などを思い浮かべるとえもいわれぬほどに怖くなり、それで休んでしまったのです。それでも今回は非難を浴びせられることもなく、ほどなく閲覧数もいつもの数字に戻りましたので、また少しばかり書こうかなという気持ちになり、今まさにこのように書いているところです。ところでなぜ改行するのをやめてしまったかといえば、読み辛くするためです。こんなに読み辛ければまた訪れようという気にはあまりならないでしょう。それで改行するのをやめてしまったのです。そういうことです。