イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

構造主義、こんなところかな

2008年06月08日 08時07分36秒 | Weblog
構造主義の何たるかが大体わかってきました。
何であれ人としてあるという時点で、私たちは必ず何かに規定され、
あるいは影響され、あるいは左右されているのです、
ということを言っているのです。
純真無垢などというものはありえない。それはもはや人間ではない。
言葉を使うという行為からしてそうであるならば、いわんや他のあらゆる行為
の中で、もはや何かしらに規定されているということです。
私の考えているおよそほとんどのものは誰かからの影響です。
私の語る言葉は間違いなく誰かから聞きかじり、
あるいはどこかで目を通したものに他なりません。
狼少女が狼に規定されたように、
(これ今ではほとんど信憑性がないらしいですが、
狼に育てられれば狼に規定されるのだろう、という考えは正しかったようです。)
私たちは生れ落ちたまさにその瞬間から、あるゆるものに規定されているのです。
それこそまさに人間であり、私自身、私の感情、私の心、などの自我と呼ばれる
もののそのほとんどは本当のところは他人の自我で満たされたものなのです。
そういうことを知っていけば、他人を理解する手がかりもつかめるし、
どのような言葉を使い、あるいはどのような言葉によって
規定されたほうがよいのかを考えるようになるし、
無知であることが争いの発端になっていることもわかるし、
よって、みんな仲良くすることができるでしょう、ということなのですよ。
これが構造主義です。
結論的にはそういうことです。

このような結論に納得するためには構造主義を証明してきた四銃士、
フーコー、バルト、レヴィ・ストロース、ラカン、
の説をそれぞれ見ていかなければなりません。
いかなければなりません。
いかなければなりません。
やりますとも、
読んだ文章をさらに咀嚼してよりわかりやすい文章に書き換えるという行為は
意外なほどに骨の折れる行為ではありますが、
やりますとも。
時おり言い訳をしながらでもやって見せますとも。

因みに文章の長さがまちまちなのは
一度メモ帳に書いたものを貼り付けているからです。
こうでもしないと時間がかかりすぎて、
前にも書きましたが、投稿しようと思ったらログアウトされ、
書いたものがすべて台無しになってしまうからです。

難しくなくなった「寝ながら学べる構造主義」

2008年06月03日 20時16分02秒 | Weblog
このごろ驚くほどの変化がありました。
あれほど難しいと思っていた「寝ながら学べる構造主義」なのですが、何度も何度もソシャクして、自分なりの表現に置き換えてブログにアップするという行為を続けていたら、あーら不思議、難しくなくなってしまったのです。
それどころか実にわかりやすく説明されているように感じるのです。確かにこれは寝ながら学べるほどに丁寧にわかりやすく書かれているなー、なんて感じるのですよ。
いやー、まさしく目から鱗がポロリと剥がれたような感じです。
まったく理解不能と思われた文章も何度も何度も読み返し自分なりの表現に置き換えることによってうそのように理解できるようになるのです。こうなるとさらに学ぶのが楽しくなるんですよね。
いまでこそこんなふうに書けますが、これ最初に読んだら面食らうと思うな。絶対私と同じように嘆くと思う。
「寝ながらなんて学べないよ」とね。
実はこの物言いも構造主義によって看破されてしまうのですが、、、。
学ぶ価値は大いにあると思います。

ソシュールは今日まで

2008年06月02日 20時46分48秒 | Weblog
さて、ソシュールは何を言わんとしているのかというのです。言葉はものの名前ではない。
それはつまり誰にでも通じるような普遍的なある「もの」があり、それに名前をつけていった(名称目録的言語観)ということではないということなのです。
むしろ名前をつけることによってそこに後付ででさまざまな概念が生じてくるものなのだといっているのです。
なるほどね。でもそれがどうして構造主義と結びつくの。
そうですよね。
それだけでは、人にはそれぞれその人の背景というものがあり、
たとえば、私が思う正義は誰にでも通じる普遍的なものの様でいて、実はそうではなく、本当は私が持つ背景によって強く規定されているのだ、ということの説明には結びつきませんよね。
いや、
説明はつくのです。
言葉とはその使われている国によって、同じものを指しているものであっても微妙にその意味合いが変わってくるのです。
たとえば豚と羊、
日本人にとっては豚であれ羊であれ価値的に見てそれほどの違いはありませんよね。
むしろ好んで食べるのは豚のほうなので、豚のほうが価値があるのかもしれない。
しかし、これがイスラエルに行けばその価値は決定的に違うのです。
羊は神が与えしまことにすばらしい動物なのです。それに引き換え豚は禁忌、食べることはもちろん、同じ調理器具を使って調理することも許されません。
イスラエルでは豚と羊がなぜそのように厳格に分けられているのかについてはここでは触れませんが、言葉とは生成された国ごとにその概念を異にするものなのす。
そしてそのような言葉を使っているということ自体、すでに私たちは日常使っている言葉に規定されているということにはならないでしょうか。
だからね、マルクスのように階級によるなどといわなくても、フロイトに様にむしろ無意識に支配されているなんて言わなくても、普通にあなたが生まれた国の母国語を使っているというただそれだけで、ある価値体系にすでに規定されているのですよ。
さらにいうならば
言葉とは心そのものなのです。
心にある思いを言葉に表現するのではなく、言葉によって表現されることにより、私たちは何を考えていたのかを事後的に知るのです。もちろんそれは心の中で独白する場合でも同じことです。
極論すれば「心」とは言語を運用した結果、事後的に得られたものであるともいえます。
このように日本なら日本という背景の中で生成されてきた言葉に私たちは規定され、私自身を培ってきたのです。
それはつまり、私の思いなどと表現されるおよそほとんどのものが、本当は誰から聞き、どこかで読んだものにほぼ間違いないでしょう。ということなのですよ。
ごくごく簡単ではありましたが以上でソシュールの説明を終わりたいと思います。
どうです。
はじめに言葉ありきでしょう。
ね。