山横目のブログ

日々のつぶやきや旅の忘れじを書き綴ります。

嵐山・渡月橋へ

2023-12-21 13:19:11 | 西国巡礼(R5.12山城)
12月15日 昨夜は雨が降り、明け方になって雨はやんだが曇り空だった。今日は午後3時半の神戸空港発のスカイマーク便で茨城へ帰る予定にしている。午前中時間があるので、宿泊した四条大宮から嵐電に乗って嵐山に行くことにした。
嵐電のように市街地を走る路面電車は身近で親しみを感じる乗り物だ。石山や大津の街を走っている京阪電車も車窓の風景がゆっくり進み、穏やかないい感じになる。
嵐電も京都市バスも定額運賃(嵐電が250円と市バスが230円)にしている。下りると時に運賃を支払うため、嵐電の2両編成の電車の場合は、両方の車両の出口に係員がいて料金の徴収を行っていた。こういう少し時代遅れのところがまたいい感じがする。今日は朝9時に嵐電の四条大宮駅から乗車したが、次の西院の駅からは阪急電車からの乗り継ぎ客、また市営地下鉄からの乗り継ぎ駅の雷電天神川でも大勢の観光客が乗り込んできた。大半は外国からの観光客だった。

終点の嵐山の駅を出て渡月橋に向かった。雨上がりの嵐山や周辺の山はモヤに煙っていた。

秋の紅葉も終わり、すっかり葉を落とした冬枯れの嵐山はほとんど感動するものはなかった。雨上がりで冷え込んでいたこともあり長居をするところではなかった。渡月橋の上流の段差のある堰では水鳥が数羽くつろいでいた。
橋のたもとにある石碑には、「琴きき橋跡」と書かれていた。ネットで調べると、平家の娘(琴の名手)と天皇の悲恋の物語があったことが書かれていた。

「琴きき橋跡」
「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に、ひかれて来にけん望月の駒」

橋直下の下流では河床を補強する工事が行われていた。河床にフトンカゴと呼ばれる大きな石を詰めた針金のかごを敷き詰め、河床の洗掘を防ぐことで上流にある橋脚の根本が洪水の時に流されないようにするための工事だ。橋から多くの観光客が見つめる中で、水にジャブジャブ入って工事をする作業員も余計な気を使って大変だろうな〜と思った。


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仁和寺へ

2023-12-20 09:31:05 | 西国巡礼(R5.12山城)
革堂を出たのが午後の3時頃で、京都御所前の丸太町通を歩いていると後ろから仁和寺行のバスが通り過ぎた。今日の宿泊ホテルは四条大宮にあるので、嵐電を利用して戻ると都合が良かった。そのような訳で、烏丸丸太町のバス停で御室仁和寺行のバスに乗り、30分ほどバスに揺られて仁和寺に着いた。
(仁和寺山門・境内側から)
仁和寺は今年の将棋の竜王戦が行われたところで、山門を入って左側の本坊が会場とのことだった。このエリヤは書院という客人をもてなす建物があるところで日本庭園が美しいことで有名だが、有料のエリヤなのでパスすることにして、奥を散策することにした。
(右側にそびえ立っている五重塔)
(奥の突き当りにある国宝の金堂、本尊は阿弥陀如来)
金堂の入口の階段には竹でバリケードがあり、中を覗けないようになっている。そのためか広大な敷地ということもあって、参拝する人もいない静かなお堂になっている。
(立派な鐘楼)
(御影堂・弘法大師の像が祀られている)
(観音堂には参拝者がいて、手前に前立ち仏とつながる紐が2本出ていて、身近に感じられた。仏様は千手観音菩薩)
境内にはいたるところに桜の木が植えられていた。背丈ほどの「御室桜」と呼ばれる桜は春満開となり、和歌などに多く歌われたり、古くから著名な人や参拝者を楽しませていたとのこと。
仁和寺は平安時代に創建された古いお寺だが、戦乱に巻き込まれて焼かれた歴史があり、他の地に移築されたりしながら天皇家の保護のもと、江戸幕府によって再建された。国宝の金堂は京都御所の紫宸殿を移築したもので、五重塔も江戸初期に建てられた。このため、西国巡礼のお寺などと比べてもかなり新しくきれいな建物となっている。

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六角堂、革堂へ

2023-12-19 12:29:38 | 西国巡礼(R5.12山城)
南禅寺を後にして再び蹴上駅に戻り、次の巡礼地六角堂を目指した。まず地下鉄東西線で烏丸御池で下り地上に出て烏丸通りを京都駅方向へ歩いた。10分ほどで十八番札所・六角堂の案内板があり、路地に入ると左側にお寺があった。

お堂の六角の屋根が二重に重なったように見えるのが特徴。
お寺が京都の市街地のほぼ真ん中に位置しているためか、本堂と納経所だけが古くからの建物で、他に鉄筋コンクリート造の集会所や僧坊らしき建物が周りを取り囲みコンパクトにまとめられたお寺になっている。庭には様々な表情をした小さな羅漢像が東側に20体、西側に30体ほど並べられている。

六角堂の納経所に次の札所・革堂への道順を示した地図があった。ほぼ地図どおりに一旦東に進み商店街のアーケードのある通りを北上し、鳩居堂前から本能寺前を通り京都市役所の脇の寺町通りを北へ向かった。
(本能寺門前)
(京都市役所)
寺町通には藤原定家の屋敷跡の石碑があった。
寺町通を北へ進み、京都御所前の丸太町通りの手前、右側に十九番札所・革堂があった。お寺はいたって静かで、参拝客もほとんど見当たらなかった。
(本堂・十一面観音菩薩)
境内にはハスの花を咲かせる大きな瓶が数十個置いてあり、花の季節には参拝客で賑わうことだろう。
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南禅寺へ

2023-12-19 09:02:13 | 西国巡礼(R5.12山城)
琵琶湖疏水記念館の帰り道、東向いにある禅寺・南禅寺を訪れた。南禅寺は臨済宗の総本山で京都五山の第一位のお寺となっている。臨済宗は鎌倉時代はじめに栄西によって教えが広められた。特に鎌倉武士の間でもてはやされ広まった。室町時代には幕府によって保護され、政治の世界と結びついて発展した。座禅の修行が剣の修行と結びついていると考えていた。また、栄西は宋(中国)から持ち帰った茶の習慣を広め、日本に茶の湯の文化が根付いた。
南禅寺で巨大で立派な建築物は「三門」で京都の町並みが一望できるとのこと。
(南禅寺紹介の立て札)
三門の奥にある法堂には正面に釈迦如来像、天井には蟠龍(鳴き龍)の絵があって威厳のようなものを感じた。
(法堂、北側から)
(天井の蟠龍)
奥の建物・方丈には鎌倉時代の狩野派絵師による襖絵が有名で、特に江戸期の絵師・狩野探幽による虎の絵が客人を迎えていた。
今回は時間に追われ、方丈には立ち寄らなかった。
お寺の南側には寺の敷地内をかすめるように北へ向かう琵琶湖疏水のレンガ造りの水路があり、お寺の荘厳さと近代的なレンガ造り建造物のミスマッチがおもしろい。


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琵琶湖疏水記念館

2023-12-18 08:40:04 | 西国巡礼(R5.12山城)
12月14日 今日も朝から冬晴れのいい天気になった。昨夜は石山駅に近いホテルに宿泊した。夕方向かいの焼き鳥屋でビールと地酒を飲んで英気を養った。今日は京都市内の2つのお寺を回る予定だが、その前に京阪電車の沿線にある琵琶湖疏水記念館を訪れた。石山からは京阪電車で浜大津まで行き、京都線に乗り換えて蹴上で下車し10分ほど歩いた。
この記念館までの道路脇にインクラインという小舟を陸上運搬する乗り物があった。蹴上は琵琶湖疏水が京都側市内に流れ出す起点にあたるところで、落差を利用して水力発電を行っていた。この落差があるため、物資を積んでいる小舟を載せてレール上を引っ張り上げた仕組みがインクラインだった。琵琶湖側からの小舟は下り側のレールで使っていた。ケーブルカーの仕組みと一緒だ。

館内は無料で誰でも自由に見ることができた。明治18年(1885年)から5年で第一疏水が開通した。途中2箇所から竪坑を掘って、そこからも掘り進み工期短縮を図った。蹴上から3方向に分水された流れのうち、北側に向かった水は南禅寺境内の水路橋を通って、「哲学の道」脇の水路となった。
(琵琶湖側取水口)
(琵琶湖側水路、桜並木冬景色)
記念館の館内には工事前に行われた正確な測量図や工事用の図面を作成した縮尺の異なった竹製のスケール(工事の責任者には工部大学校を卒業したばかりの田邊朔郎が担い、このスケールは図面を作成・工事を遂行したときに使用したもの)が展示されていた。

(路線図、第一、第2疏水)
(竹製縮尺スケール、田邊朔郎のサイン)
記念館前の池、以前は物資の運搬をしていた船の船溜まりだった。この中心にある噴水は明治天皇が疏水の完成を祝い、訪れた時に水を吹き出し始めたもの。当時の県知事から田邊朔郎宛の手紙が展示されており、どうしても天皇の御来行時に間に合わせるようにと書かれてあった。
(記念館から鴨川へ向かう水路)

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