【家系図Ⅱ】解読文
一水戸大田城主佐竹義宣郷迄テ
代々家中ニテ大森美濃守ト申居住仕候
所慶長七年五月七日御上□両人
榊原式部少輔康政花房文平某
羽列穐田エ国替被仰付城請取人
向(白)土大隅 相沢久衛門 六月廿六日
家老両人外ニ家中四拾余人召連出立
秋田城之□時実家老秋田右近
同兵衛門両人城渡八月二日ニ城請取
十ト一之□□之御達ニ付相残之家中
五日五晩之御□乞イテ則秋田エ御入討
遊□テ依而兄美濃供奉弟肥前ト申
者相残農入ニ相成作之丞 惣兵衛
惣左衛門ト相続此時御検地御案内
組頭ニテ仕其時持高拾八石七計(斗)七舛(升)
五合所持仕リ与外ニ意味等無御座由
依而此旨書申上候以上
【解説】
戦国時代末期(1590年頃)佐竹家20代当主であった佐竹義宣の家臣となり、佐竹家に仕え、太田の地に住み着いたことが書かれている。1590年豊臣秀吉によって小田原攻めが行われ、北条氏は没落する。大森家先祖はこの時まで北条氏の家臣として仕え、小田原落城と共に佐竹氏の家臣となったことが考えられる。