山横目のブログ

日々のつぶやきや旅の忘れじを書き綴ります。

穴太寺周辺の道標

2024-04-21 08:31:29 | 西国巡礼(R6.4京都西山)
古来からの穴太寺への巡礼路を考えると、地形として亀岡は京都の西部で周りを山に囲まれ盆地になっている。現在のように鉄道や道路がなかった頃、盆地の東側を流れる大堰川(桂川)に沿って巡礼者が行き来したとは考えにくい。むしろ、山の尾根を抜けるような道を考えるのが自然な気がする。
巡礼の順では善峯寺から逢坂峠を通り、現在の亀山霊園あたりの山を越えるルートを通ったようだ。
穴太寺の北門を出たところにあった道標、石碑の高さは60cmほど。
右京 かめ山
   あたご
もう一つ路地にあった道標。
右 あなお寺 ◯◯
左 ◯◯山(愛宕山か)  ◯◯
愛宕神社のある愛宕山から京へ抜けるルートも考えられる。

安政4年に曽祖父が通ったルートは定かではないが、(旧暦)2月9日に京都の六角堂と革堂を参拝して、翌日の2月11日に穴太寺と善峯寺をお参りしていた記録になっている。2月12日には総持寺に着いていた。
穴太寺から総持寺への道順は穴太寺の正門を出たところに「大阪道」の標識(最近立てたもの)があり、現在の国道423号に沿って向かうことになるようだ。
(穴太寺の門前、左に曲がったところに大阪道の標識がある)
 
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善峯寺へ向かう道端の道標

2024-04-19 10:05:47 | 西国巡礼(R6.4京都西山)
4月10日に善峯寺を訪れ、参拝を済ませたあと山を下るように小塩の十輪寺まで歩いた。この巡礼道に沿って立っている道標や石碑をまとめた。
(小塩・十輪寺門前)
十輪寺は平安時代の六歌仙・在原業平のゆかりのお寺。
十輪寺近くの道路脇に立つ道標

右 よしみね道
是より十二町
下の写真は善峯寺の領地を示す石碑
長岡天満宮への分岐路に立つ道標
(指差し右) 長岡天満宮道
(指差し左)よしみね寺道
善峯寺へ向かう道端にある三鈷寺を示す道標

(指差し左)三鈷寺道
 七丁
三鈷寺入口の道標
善峯寺バス停近くの道標
みちしるべ
右 よしみね寺

善峯寺に到着

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壬生寺へ

2024-04-17 09:14:51 | 西国巡礼(R6.4京都西山)
4月12日 今日も朝から晴れていい天気になった。今日は四条大宮のホテルをチェックアウトして壬生寺に寄り、JR丹波口駅まで歩き、JRを乗り継いで神戸に戻ることにしている。
壬生寺はお地蔵様を祀っているお寺で、参道のそばにも、いくつかのお地蔵様がそっと立ってていた。
下の絵は「水かけ地蔵」、自分の身体で痛むところの平癒を願い、お地蔵様に水を掛ける。私はお地蔵様の腰のあたりにしっかり水をかけ、腰痛が楽になるように願った。

「夜啼き地蔵」子どもの夜泣きや病気が平癒することを願ってお参りするお地蔵様。庶民の小さな願いを聞いてくれる。
本堂の南側にお地蔵様が千体祀られている巨大な地蔵塚がある。塔の姿が一見してタイやミャンマーのパゴダによく似ている。
この塔の前には日本ミャンマー協会の看板とともに、ゾウの装飾の入った袈裟袋が掲げられていた。このお寺とミャンマーの結びつきが感じられる。
ミャンマーにはコロナの前に2度ほど訪れていた、人懐っこいミャンマー人には親しみを感じていた。アジア最後のフロンティアと呼ばれ、自由な経済発展の恩恵を掴み始めたとき、3年前の2月1日に軍部によるクーデターが起きて、混乱と苦悩の時代になってしまった。最近では北部や東部で少数民族の武装勢力が反撃に出でおり、国軍内部でも兵士が集団で逃亡したりして、国軍の勢いが落ち始めている。

この壬生寺の境内には、保育園や老人ホームがあって福祉活動にも力を注いでいる。お地蔵様のように人々を身近に優しく見つめるお寺だった。
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四条河原町の夜桜

2024-04-16 15:09:17 | 西国巡礼(R6.4京都西山)
4月11日 宿泊するホテルを四条大宮に予約していた。夕方の5時頃JR線を嵯峨嵐山駅で降りて、嵐電に乗り換えるため嵐電嵯峨駅まで歩いた。嵐山から四条大宮に向かう電車はインバウンドの外国人でいっぱいだった。車内アナウンスも車掌さんが流暢な英語で話していた。嵐電は均一料金250円で降りるときに支払う仕組みになっている。無人駅では車両の出口で支払うが、有人の駅や終点では改札口で支払うようになる。この辺のことを繰り返し英語でアナウンスしていた。
今日は朝から腹の調子を崩したため、夕方までほとんど食事をしていなかった。夕方になって調子が戻ってきたので、四条大宮でホテルをチェックインした後、前回訪れたことのある大阪王将へ向かった。しかし、ここも満員で並んでいる状態だった。仕方がないので電車で2駅の四条河原町に向いラーメン屋を探すことにした。
(河原町の夜桜)
繁華街はインバウンドの外国人であふれていた。多くは集団で夜桜や街歩きを楽しんでいた。家族連れでブラブラしていた集団は中国語を話していた。
(細い路地の居酒屋街)

(バスに乗り込む欧米人集団)
(アーケード通り)
結局、四条大宮に戻り大阪王将でラーメンを食べてホテルに戻った。前回京都を訪れたときに格別おいしいと思ったのが、コンビニで買った伏見の酒で玉の光の冷酒だった。今回も迷わずコンビニに寄って冷酒を買い求め、部屋でチビチビ飲んだ。

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京都美山・かやぶきの里へ

2024-04-16 08:32:35 | 西国巡礼(R6.4京都西山)
穴太寺を後にして、11時頃亀岡駅に戻ってきた。これから電車とバスを乗り継いで美山かやぶきの里へ向かう。山陰線の日吉駅から南丹市の市バスに乗り換え、かやぶきの里へ向かうのだが、バスはICカードが使えず現金(600円)の先払いだった。12時過ぎのバスは学校帰りの小学生が10人ほど乗り込んできて、ほぼスクールバス状態だった。バスの運転手さんは子どもたちの降りるそれぞれのバス停を把握しているようで、わざわざかやぶきの里へ向かう道から外れ、子どもたちを送り届けてからかやぶきの里へ向かった。約1時間のバス旅で美山かやぶきの里へ到着した。


かやぶき家の一軒が民俗資料館になっていて、中を覗いてみた。係の方が丁寧に家の歴史や間取り、構造など詳しく説明してくれた。
(美山民俗資料館)
美山かやぶきの里は国の「重要伝統的建造物保存地区」に指定されていて、屋根の葺き替えなど家の外観部分についての補修には9割の補助金が出るそうだ。ちなみに屋根の南側一面だけの葺き替えには500万円ほどかかり、個人負担は50万円ぐらいと言うことのようだ。
(かやぶき家の構造)
(屋根の骨組み)
屋根裏の丸太や梁、棟木などの結束部はすべて藁縄で結び、釘は使われていない。この屋根裏の空間は屋根材の藁や茅を保存する部屋だった。
かやぶき屋根の断面は3層に分かれていて、下の層の白い層は麻の茎、中間に藁の層があって表層に茅を葺く構造になっている。20年〜30年で葺き替えを行うそうだ。雪が積もって溶けにくい北面の屋根のほうが傷みやすいとのことだった。
茅葺屋根の家での生活は、夏場はクーラーが必要ないほど涼しいそうだが、冬は格別寒かったそうだ。現代のエアコンのある生活と比べるので余計に寒く感じるのかもしれない。電気のなかった時代、昼間には農作業や牛の世話など外で活動し、夕方からはかまどや囲炉裏で煮炊きをして暖を取っていたのだろうが、寝ているときは寒かったかもしれない。
(茅干しの風景)
茅葺き作業を行う職人さんについて聞いてみたが、現代では地元の若者の中から職人として受け継ぐ者が出てきているとのことだった。この地区だけで一年中作業があるわけではないので、全国各地の茅葺屋根の葺き替えに参加しているとのことだった。

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