private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

A day in the life 10

2017-03-19 11:21:23 | 連続小説

 白いシャツに黒のスカートは膝上まで。ボルドー色のショートタイがアクセントになって、モスグリーンのエプロン。サトミがこのレストランでバイトをすると決めた理由のひとつが、その店のフロアサーヴィス係りの制服にあった。あの服を着て颯爽とオーダーを受け、料理を優雅に運んでいる自分を想像し、それが自分のライフスタイルとして、一日の中にはめ込まれると思うと気持ちがたかぶった。ひとが職業を選ぶ動機として、それほど高い志が誰にでもあるわけではない。
「いらっしゃいませーっ。2名様ですか?」
「ありがとうございましたーっ。またのご来店、お待ちしておりますーっ」
「おまたせしましたーっ! 煮込みハンバーグセットになります。ワインを注ぎますね」
 そんな言葉を一日に何度、繰り返しているのだろうか。実際には颯爽でも優雅でもなく、あれはその人の持つスキルの問題で、なれないあいだはバタバタと駆けずり回っているうちに一日が終わっていた。
 昼食時と夕方からのピーク時には、ミスをしないように客を捌くのが精いっぱいで、客として来店したときに、こんなふうに接客サーヴィスしてもらえるといいなと考えていたことは、なにひとつできなかった。それどころか、少しでもラクをしようと考えはじめ、自分だけが忙しいようにふるまって、他のフロアサーヴィスをヘルプする場面から逃げまくっていた。
 昼のピークタイムが終わると、店内の片付け、清掃、備品の確認と発注、食材の補てんと、客が少ないからといって一息つけるわけではない。そもそも人が余るようではバイトを雇わないだろうし、人件費を考えれば、近頃ではどこもギリギリか、少し足りないぐらいで仕事をまわしていくのがあたりまえだ。
 人件費が一番のコストに跳ねかえると経営者はわかっている。実績や経験の積み重ねが重要視された時代は終わり、誰もが同じように、そこそこ仕事ができる環境と手順書の整備に一度投資しておけば、どんなバイトが来て、短期で辞めようが、店は平常運転できるしくみになっている。世界の富が上位2パーセントの人間が寡占していても、世の中がとどこうりなく回っていくのは、それがきっちりと機能しているからだろう。
 夕食時のピークが落ち着いてきた。夜は夜で、洗い場に放り込まれていた大量の食器をキッチンの担当者と分担しておこなわなければならないし、明日のための仕込みと、欠品の発注。そして溜まりに溜まった一日分の廃棄食材のゴミ出しが待っている。自分の理想のバイトライフに雑用や、ましてやゴミ出しという項目は入っていなかった。
 少しでも早くあがれるように、いつまでも残っている客へのサーヴィスは後回しにして、新しい客が来ない限り使われないカトラリー類のかたづけをしはじめたところに、いらっしゃいませーっ。という声が発せられていた。この時間帯に新規の客かと、うんざりして顔をあげると、ランニングシャツにディバッグを背負い、ポケットがはちきれそうになっている短パンをはいたビーチサンダル姿の男が扉のところに立っている。これが日本人なら、ヤマシタキヨシかっ、と突っ込みをいれるところだが、その男はどうみてもアングロサクソン系の外国人であった。
 サーヴィススタッフのあいだに緊張が走った。誰があの外国人のサーヴィスを受け持つのか、互いに目を配らせ、そしてすぐに目を伏せていた。そうなると、自然にチーフの方へ目線が集まる。25才のこの男は、その視線を感じているのか、あえて無視しているのか、レジで今日の売上の計算にますます力が入り、いつもより大きなタッチ音を響かせて、レジのボタンを操作していた。その姿からは、オレは忙しくてそれどころじゃないんだと、無言でまわりに伝えているつもりのようだ。
 責任者というものは、自分の担当の責任を取る人間ではなく、その責任を誰に押しつければ自分がラクすることができ、かつ、上司に評価されるかを考える役職であるのだとは、このバイトでサトミが学んだことのひとつだった。就職する前に知る社会の真の姿は、予定調和であるインターンとかではなく、バイトの就業の中ではじめて体験することができるのだ。
 カトラリーをワンセットだけ残して、奥の食器入れに戻そうとしていたサトミの前に古株の女性サーヴィスのマサコが横から立ちはだかった。前につんのめってなんとか接触をかわして、おどろいた顔を上げるとマサコは困った表情で話しかけてきた。
「ねえ、サトミちゃん。あなた大学生でしょ。現役なんだから英語、イケるわよね。あのガイジンのサーヴィスお願いね」
 困った顔はしていても、懇願ではなく、命令だった。わたし、理系なんですとは言えずに、そう言われればしたがうしかなく、はあぁと、どっちつかずの言葉をもらしていた。
 まわりを見渡しても、みんな、なにやら忙しそうにゴソゴソとやっていて、誰一人積極的にサーヴィスをしようとするつもりはなさそうだ。それは、いつもサトミがしている行為であり、まわりまわって自分に戻ってきてしまった。
「○○×□△△!」
 そうしているうちに、その外国人は店先でなにやら声を上げ始めた。
「ほらあ、いそいで。カトラリーのかたづけなんか、まだ早いでしょ。みんな忙しいんだから、あなたが一番適役なのよ」
 それはあなたがいちばんヒマしてるのよ、の言い換えだ。客の状況を見て、早めに片付けられるものは片付けて。いつまでもダラダラやって、無駄にバイト代稼ぐんじゃないわよと、教えてくれたのはアナタだったではないか。そう反論したところでこの先自分の立場が悪くなるだけだ。
「お願いね」それが最後通牒だった。
 突然のムチャ振りをされ緊張から心臓が高鳴り、手が震えだし、持っていたカトラリーがガチャガチャと音を立てる。もう一度それらを元の場所に戻して、シルバーに水と氷を入れたグラスをのせ、いつもなら片手で持っていくのに、両手でしっかりと保持しないと落としそうで不安だった。外国人の元へ向かう気持ちは、死刑囚が壇上へ上がるぐらいに気が滅入り、一歩一歩を慎重な足取りで進んで、永久に到達しなければいいのにと、ありえないことを願いはじめていた。
 近づいていくと、熊のような体格に圧倒される。
「あのー、メイ アイ ヘルプ ユー?」
 たしかこんなことを言えばいいはずだと、発音が合っているかどうかもわからないままに、とりあえず巻き舌で言ってみた。
「アノデスネ、ワタシハ サンドウィッチ ヲ イタダキマス」
 カタカナでしゃべったわけではなくとも、そのように聞こえてきたのは、子供のころ読んでいたマンガの影響か。なににしろ日本語が通じて良かった。その外国人は有名な日本の小説家の本を持ち上げて指を差した。
 サトミも中学の時に背伸びをして読んだもので、カバーに見覚えがある。たしか隻腕の男性が器用にサンドイッチを作るエピソードが入っているものだ。三つ年上の姉が絶賛するものだから受け売りで、同級生に自慢げに、いま熱いのはこれだよねえ、なんて話してしまったものだから読まないわけにはいかなかった。
 姉は、論評は述べるものの本は貸してはくれず、いわくこの大切な本に人の手が触れ、目で汚されるのが許せないと、ひどい断り方をしてきた。しかたなく、夏に友達と海に遊びに行くために貯めていた小づかいの中から捻出して買ってしまった。そのおかげで、旅行先では節約するはめになり、楽しくなかった方の夏の思い出により分けられることになった。
 その後も、言い触らした友達の手前、新冊が出るたびに買わないわけにはいかず、途中で自分にはハードルの高い内容だと気がついても、残念なことにその友達は自分よりもハマってしまい、話しを合わせるのに四苦八苦した。わかったような顔をして姉からの受け売りの論評を述べるのに終始することになる。
 一度あげた手をおろすのは容易ではないと気づいたのはそんな経験からだ。持ち上げられた作家もそんなことで、上げ下げされたらたまったものではないだろう。無理をして読んでも、あたまに入らず、他の読者のような評価を持つこともできない。高校を卒業してからは、いつしか本棚に納められたまま手に取ることもなく、当然のように、その先の新刊を買うこともなくなり、多くのひとたちの賛否だけが耳に入るだけの存在になっていた。
 難解だとか、作風が変わったとか、昔の方がよかったとか、それはすべて作家のせいではなく自分自身の気持ちの在りようであるはずなのに、いつしか群衆の中で正当化されていくのを潮流からはずれて見ていると、なんら自分と変わりないのではないかと、馬鹿げた論争の輪の中にいないことに安堵していた。
「アッ、コチラニ、ドウゾ」
 なんだか、自分もカタコトになってしまうのは、影響されやすいのか、相手に気を使った結果か。席に余裕があることもあり、大柄な外国人を4人席に案内した。奥側のソファーを進めたら、大きな身体をねじ込みながらなんとか座ってくれた。
 グラスとおしぼりをテーブルに置き、メニューボードを指さして。
「あのう、何サンドにします?」
 なにがいけなかったのか、外国人は突然声を荒げた。
「ノーッサンド××○○◎△▲!!??」
 最初の方はなんとか聞きとれたが、あとはスピードが増して何が何だかわからない。サンドイッチが食べたいと言ったはずなのに、聞き違いだったのだろうか。
「エーッ ホワット ドゥ ユウ ウォント?」
 たしかそんな聞き方をすればいいはずだ。しかし指した先は、対外国人を想定しておらず、写真もなく日本語の文字しか書かれていない。しかたなく英語に変換していく。
「うーんと、ハム or エッグ or ベジタブル or カツ」
 最後のカツは英語ではないと気づき、合っているのか知らないがフライドポークとでもいってみようかと思う前に外国人が、オー! ベジタブル □◆■…… とりあえず喜ばれたようだ。
 ベジタブルあたりは聞きとれたので、それではベジタブルサンドイッチでよろしいですねと念押ししてみたら、NO! NO! NO! サンドウィッチ、サ・ン・ド・ウ・ィ・ッ・チと連呼された。どうやら発音がイケてないようだ。両手を上げ下げしてオーケー、オーケーとなんとかとりなして調理場に戻って来ると、興味しんしんでみんなが待ち構えている。
「どうだった?」「通じた?」などと聞いてくるのをかいくぐって、とりあえず野菜サンドのオーダーを通す。
「はいよ、野菜サンドひとつねーっ」
 フロアの状況を知らずに、単なるオーダーの一つとして調理場のカワカミが大きな声で復唱した。サトミはこころの中で、NO! NO! NO! サンドウィッチ、サ・ン・ド・ウ・ィ・ッ・チ、と言って少しでも気を晴らしていた。
「あなた、なかなかやるじゃないの」
 マサコが歩み寄って来た。他のみんなも連なってくっ付いてくる。状況報告は必須らしい。
「日本語で通じましたから… 」
「へーっ、ヒッチハイクでもしてきたような感じだけど。何しに日本に来たのかな」
 テレビの突撃レポーターじゃあるまいし、そんなことまで聞けるわけはない。
「さあ、きっと、聖地巡礼ってヤツじゃないですか」
「セイチジュンレイ?」
 合唱部のように声を合わせてきた。
「ほら、小説とか、映画とか、アニメでロケ地に来て、主人公たちと同じ場所に立ちたいって。たぶん、きっと… 」
「えっ、ここのレストランってなんかのモデルになったんですか?」
 同い歳のサオリが、少し考えればそんなことありえないはずなのに真顔で聞いてくるので、マサコがすぐに否定した。最年長のマサコがそう言えば間違いはない。そうすると今度は疑いの目がサトミに向けられる。好きな作家の国に来たのだから、広い意味での聖地巡礼で間違いはないはずだ。それをいちいち説明するのも面倒なので、自分の勝手な思い込みだと訂正しておいた。
「それにしても、アナタって、人見知りしないタイプの人だったのね。意外だったわ」
 自分から押しつけておいてよく言うわと、文句のひとつでも言いたかったし、それよりも嫌な気持ちになったのは、人見知りしないというサトミにとっての嫌忌だ。もちろんマサコは誉め言葉としてそう言ってくれているのはわかっているけれども、サトミはゆがんだ顔になるのをこらえるのに必死だった。
『オマエは、人見知りしない性格だなあ』
 担任の先生にそう言われた時、小学校低学年のサトミは、自分から進んでいろんな人と話したり、助け合ったりすることができる子供だと誉めてもらえたと思った。大学の専攻で脳科学を勉強していたらしく、したり顔でクラスメイトの前で話し始めたのは、ここぞとばかりにウンチクを披露したがる下衆な人間のそれであった。
『赤ちゃんが、はじめて自分以外の別の人間と知るのがおかあさんで、そこから世の中とつながりがはじまる。おかあさんの顔をおぼえていなくても、ほかの女の人では本能的に安心できないそうだ』
 子供の興味をそそることを言いはじめ、流れ的にサトミは自分の人見知りのなさをさらに持ち上げてくれるものだと思った。事態が変わったのはそこからだった。
『そうして安全な人間と、安全でない人間を赤ん坊でさえ本能的に区分けしていくのに、誰が近くに寄って来ても不安を感じず愛想良くするのは、ある意味その危険を感じる能力が低いのかもしれないなあ』
 笑顔で聞いていたサトミは心臓が飛びはね、恥ずかしさのあまり身体をちぢこませるしかなかった。クラスでお調子者の男の子たちは、指を差して大笑いして、テーノー、テーノーと囃し立てはじめた。バカにする男の子たちより、そんなことをこの場で自慢げに言う担任のデリカシーのなさに涙が出てきた。
 さすがにまずいと思ったらしく担任も、これはあくまでも先生の考えだから正しい論理であるわけじゃないとか、どっちがどうなのか、ハッキリとものごとを言いきらない立場を悪くした政治家の釈明のようなフォローを入れてもあとのまつりで、サトミはしばらくのあいだテーノーというあだ名で呼ばれることになった。
 そんな過去の話しを持ち出しても迷惑なのはわかっている。そうらしいですね。自分ではそう思ってないんですけど、まわりからは小さい時からよく言われましたと、応えておいた。いったい誰に向けての皮肉なのか自分でもよくわからない。
 ウォーターポットの水を空けて、かたずけをはじめ不機嫌な態度を隠そうと必死だ。マサコは、あら、そうお… と、なにか悪いことでも言ったかしらというように遠慮気味だ。
 フロアは当の外国人を含み、3組の客が残っているだけになった。外国人はページをめくりながら、廻りを見回しなにやら満足げなようすだ。それほど珍しい店でもないはずなのに、なにが彼をそこまで楽しませているのかわからない。その姿を見てスタッフのみんなは、なんか気持ち悪いわねとか、いい年してあのカッコウはないわとか、オタクっぽいとか非難の言葉が絶えなかった。
「ねえ、ねえ、マイケルが、アナタ呼んでるわよ」
 サオリが嬉しそうに、あご先でしゃくってみせた。例の外国人は、サオリの仲間内でマイケルと名づけられていた。サトミはわずらわしげに「はあ?」と言ってみる。
「なんかさあ、マイケルって感じじゃない? ほらあ、理屈っぽい映画撮ってるアメリカのぉ」
 マイケルと言われればキング オブ ポップスを連想するサトミは、なにか一致しない。
「ほーい、サトミちゃん野菜サンドあがったよ!」
 とタイミングよくキッチンから声がかかった。ハーイと、返事をして皿を受け取る。
 マイケルは…(まあマイケルでいいか)不審げに、スタッフがいる方に顔を向け、何度か手を挙げている。サトミがフロアに出てくると、大きなゼスチャーをして、手で引き寄せる。呼ばれなくたって行くわよと、含みながらも顔は笑顔のままで、さして待たせてなくとも、お待たせいたしましたと、言う日本文化の奥ゆかしさを披露して、つとめてあかるく振る舞って見せた。
「お待たせ… 」
「アノー、デスネ ワタシ ベバ××○○△△…… 」
 最後まで言いきる前にマイケルがかぶさってきた。サトミはとりあえず野菜サンドをテーブルに置き、他になにか御注文ですか? と言ってから首を振って アナザー フード ユー ウォントと言ってみた。あたまを掻いたマイケルは、大きな動きで口に流し込む動作を繰り返す。お冷はさっき置いたしと、眉間のしわがとれないままのサトミにごうを煮やして、何度か両手をひろげるポーズをする。待てということらしい。指を立てこめかみのあたりに持っていき、名探偵が良くするポーズになる。電球に明かりがついたらしく、突然目が見開き、左手でなにかを持ち、右手でその先をめがけ手首をひねりタイミングよくポンと効果音を入れる。サトミはマイケルワールドに引き込まれウンウンと首を縦に振り、次のヒントを促しはじめる。いつしか店に残っている客も、スタッフもふたりの行動に釘づけになっていった。
 マイケルも調子づいてきたらしく、両手で押さえて落ち着けと言わんばかりだ。次に左手でコップを持つ仕草をして、右手でつかんだものを傾ける。トクッ、トクッ、トクッと舌を鳴らす。サトミもだいたい何を意図しているか察しがついているが、面白いのでそのままやらせておいた。思った通り、左手に持ったジョッキを(もうジョッキでいいでしょう)、口元に近づけて、いかにもという聞きなれた音をたてる。グビッ、グビッ、グビッ。ダーッと感嘆の声をあげた。そこまで待ちに待ったサトミが、イッツ ア ビアー!! と声を上げると、Yeah! とマイケルが手を上げるので、それにサトミも応えて、ふたりはハイタッチした。パーンっという大きな音が店内に行きわたる。そこではじめて悪乗りしている自分に気づいた。固まった他の客の目と、冷やかなフロアスタッフの目と、レジに立つマネジャーの厳しい目が突き刺さった。
 マイケルも状況を察したらしく、優しいまなざしを向けて、首を振って気にすることはない、と大きな手を広げていた。サトミは、ままならない自分をなんとかするべきだと思った。アリガトウとマイケルに声をかけ、調理場の冷蔵庫へ向かった。やはり真っ先に駆け寄って来たのはマサコで、「アナタ ホカノ オキャクサマニ ○○◎◎××… 」途中からマサコの言葉が理解できなくなっていた。母国語が理解できないってどういうことなのか。それを解明するより、この状況がおかしくなってきて声をあげて笑い出してしまった。マサコはギョッとして目を剥いて一歩足を引いていた。
 サトミは笑いながら冷蔵庫から冷えたジョッキを取り出し、サーバーのコックを引いてビールをそそぐその肩が上下している。心配げにサオリが声をかけてきた。たぶん大丈夫かと、訊いてきたのだろう。肩が上下したおかげなのか、きれいに泡立ちしたビールをシルバーに乗せて「大丈夫よ、わたしが人見知りしないのは、低能だから」サトミはどんなにまわりからの冷たい目にさらされても、なんだか身も心も軽くなった気がした。つまらない過去にとらわれていたのも、すべて自分のこころの持ちようだけだった。
 誰だって、自分のやりたいように生きていたいと思っている。誰だって、ひとの目を気にせずに生きていきたいと思っている。その境目というのは、それほど遠くはないし、その壁だって、それほど高くもない。それなのに、多くのひとは躊躇し、我慢することが大人の証明であるかのように振る舞っている。

 サトミは風采のあがらないあの外国人がこの店に、日本にこなければこんな感覚を持つことはなかった。
 マサノリは連続犯が捕まり、特別報道のテレビを見なければ、見かけだけの女と打ち解けることはなかった。
 マサルは、リサコがあのタイミングで病院に来なければ、超高速のタクシーに乗り、昼間のコンビニに顔を出すこともなかった。
 リサコが寝過ごさなければ、階段で老人にすれ違わずに、人目を気にして優しくすることもなく、タクシーを使うこともなった。
 かずみがショーウィンドウから夏木の不可解な行動を見なければ、ノガミへのサービスも変わっていたのかもしれない。年配の男がそのあとに来客しなければ、ノガミはもっと早く店を出て、リサコとすれ違うこともなかった。
 ユウコが店先の電球が切れたのに気づかなければ、夏木がユウコを助けることも、遅い昼食がハンバーガーになることもなく、アケミが新たな選択肢を手に入れることもなかった。
 商店街の夏まつりが盛況で終わらなければ、レンガの隆起を直す工事を依頼することもできず、タケシタが現れることもなかった。
 タケシタのクルマが道を塞いでなければ、アケミは法務局の駐車場に無事クルマを止められたのかもしれない。
 この世の中は複雑に絡み合っている。誰かがしたことが、知らない誰かに影響を与え、人生を少しづつ違ったものにしている。自分で選んだと思った道も、実は自分の選択ではなく、誰かの肘打ちによって動いた少しの変化が大きく自分に跳ねかえった結果なのかも知れない。
 この世の自然の摂理は、絶対にプラスマイナスでゼロになることだ。どこかでプラスになればどこかでマイナスを受け入れている。気づかないまま人生を終えていくのがほとんどで、知らないのもまた幸せの内なのかもしれない。人をうらやんで、自分をさげすんで、自分はもっとやれたはずだし、アイツの評価は実体とは乖離しているとか、不満をためこんでいる。だけど本当は、大きな成功を得た人は、その分の代償をなにかしらで払っていて。大きな損害を被った人は、実はいくつもの小さな幸せを手にしていたりする。
 自然はすべての人間に公平で、マイナス以下にはならないし、プラス以上にはならない。それを信じる人はまわりの人に優しくできるようになり、自分も幸せになれる。優しさをつないでいけば世界はもっと優しくなれる。
 それが、今日の一日。
 それが、この世界の一日