大内義隆
【諱】
義隆
【苗字】
大内
【朝臣】
多々良
【生没】
1507年ー1551年
【父親】
大内義興
【母親】
内藤弘矩の娘
【兄弟】
大宮姫(吉見正頼室)
女(大友義鑑正室)
女(細川持隆正室)
女(一条房冬室)
大内弘興
女(足利義維正室)
【正室】
万里小路貞子
【子息】
珠光
大内義尊
大内義教
大内義胤
【養子】
大内晴持
大内義長
尾崎局(毛利隆元室)
【解説】
周防守護大名大内義興の子として生まれる。
大内氏は朝鮮半島にあった百済国武寧王の孫琳聖太子の末裔である。
聖徳太子に姓を与えられた琳聖太子は日本に帰化し義照と名乗った。
(5代の阿津太子は百済の名を名乗っていた。)
そして琳聖太子の13代末裔の盛房から大内を名乗った。
室町時代になると守護大名になり、高麗や李朝や明国の貿易で栄華を極めた。
義隆は年少児は乳母などの女たちに囲まれながら過ごし。
元服すると従五位下周防介の官位が与えられる守役に杉重矩がついた。
父に従い安芸武田氏の佐東銀山城攻めに参加する。
寧波の乱が起こり、日本における明貿易を独占する事に成功した。
22歳の時、尼子攻めの最中に父義興が亡くなり家督を相続し父と祖父と同じ左京大夫の官位を与えられる。
豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏と争い、松浦氏を従属させるなど九州戦線を展開する。
勝ち続けたが田手畷の戦いで少弐氏の家臣竜造寺家兼に大敗した。
その後、謀略で家兼を離反し少弐氏を弱体化し大友氏と戦うが勢場ヶ原の戦いで失敗。
その失敗を補うべく、九州探題渋川義長を滅亡させる。
一方で朝廷関係では後奈良天皇の即位礼の際に銭2千貫(3億円)を寄進し大宰大弐叙任を申請する。
一時は許可されたが、すぐに取り消されているがなんとか叙任する。
その後九州攻撃の大義名分を得て少弐資元を滅亡し、竜造寺氏を配置する。
12代将軍足利義晴(義輝・義昭の父)の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦九州戦線は一時休戦。
出雲の尼子晴久と戦うようになり、武田信実・信重ら安芸武田氏と友田興藤ら友田氏を滅ぼし戦況を有利に進めた。
月山富田城の戦いで尼子氏を追い詰めるが、敗退。
養子であった大内晴持が撤退中に船が転覆し溺死してしまい、これが原因で政治的にも軍事的にも関心を失う事になった。
これが後の義隆の運命を決めた。
富田城の戦い以後、文治体制を展開。
フランシスコ・ザビエルと謁見し南蛮文化を保護するが。
この頃から陶隆房や内藤興盛らと対立し、謀反の噂が流れるなど政情が不安定になり。
冷泉隆豊は討伐許可を求めたが、義隆はスルーした。
1551年、とうとう陶らが決起。
内藤興盛は陶の反乱を知っていながら、黙認。
襲撃された義隆は吉見正頼を頼るべく移動するが、暴風雨のため身動きできず。
大寧寺で自害。
◆辞世
「討つ者も討たるる者も諸ともに 如露亦如電 応作如是観」
大内義尊らも殺されたり、滞在していた三条公頼(武田信玄正室三条の方・本願寺顕如室如春尼の父)関白で左大臣の二条尹房 ら公家も殺された。
これにより大内氏は事実上滅亡する。
【諱】
義隆
【苗字】
大内
【朝臣】
多々良
【生没】
1507年ー1551年
【父親】
大内義興
【母親】
内藤弘矩の娘
【兄弟】
大宮姫(吉見正頼室)
女(大友義鑑正室)
女(細川持隆正室)
女(一条房冬室)
大内弘興
女(足利義維正室)
【正室】
万里小路貞子
【子息】
珠光
大内義尊
大内義教
大内義胤
【養子】
大内晴持
大内義長
尾崎局(毛利隆元室)
【解説】
周防守護大名大内義興の子として生まれる。
大内氏は朝鮮半島にあった百済国武寧王の孫琳聖太子の末裔である。
聖徳太子に姓を与えられた琳聖太子は日本に帰化し義照と名乗った。
(5代の阿津太子は百済の名を名乗っていた。)
そして琳聖太子の13代末裔の盛房から大内を名乗った。
室町時代になると守護大名になり、高麗や李朝や明国の貿易で栄華を極めた。
義隆は年少児は乳母などの女たちに囲まれながら過ごし。
元服すると従五位下周防介の官位が与えられる守役に杉重矩がついた。
父に従い安芸武田氏の佐東銀山城攻めに参加する。
寧波の乱が起こり、日本における明貿易を独占する事に成功した。
22歳の時、尼子攻めの最中に父義興が亡くなり家督を相続し父と祖父と同じ左京大夫の官位を与えられる。
豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏と争い、松浦氏を従属させるなど九州戦線を展開する。
勝ち続けたが田手畷の戦いで少弐氏の家臣竜造寺家兼に大敗した。
その後、謀略で家兼を離反し少弐氏を弱体化し大友氏と戦うが勢場ヶ原の戦いで失敗。
その失敗を補うべく、九州探題渋川義長を滅亡させる。
一方で朝廷関係では後奈良天皇の即位礼の際に銭2千貫(3億円)を寄進し大宰大弐叙任を申請する。
一時は許可されたが、すぐに取り消されているがなんとか叙任する。
その後九州攻撃の大義名分を得て少弐資元を滅亡し、竜造寺氏を配置する。
12代将軍足利義晴(義輝・義昭の父)の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦九州戦線は一時休戦。
出雲の尼子晴久と戦うようになり、武田信実・信重ら安芸武田氏と友田興藤ら友田氏を滅ぼし戦況を有利に進めた。
月山富田城の戦いで尼子氏を追い詰めるが、敗退。
養子であった大内晴持が撤退中に船が転覆し溺死してしまい、これが原因で政治的にも軍事的にも関心を失う事になった。
これが後の義隆の運命を決めた。
富田城の戦い以後、文治体制を展開。
フランシスコ・ザビエルと謁見し南蛮文化を保護するが。
この頃から陶隆房や内藤興盛らと対立し、謀反の噂が流れるなど政情が不安定になり。
冷泉隆豊は討伐許可を求めたが、義隆はスルーした。
1551年、とうとう陶らが決起。
内藤興盛は陶の反乱を知っていながら、黙認。
襲撃された義隆は吉見正頼を頼るべく移動するが、暴風雨のため身動きできず。
大寧寺で自害。
◆辞世
「討つ者も討たるる者も諸ともに 如露亦如電 応作如是観」
大内義尊らも殺されたり、滞在していた三条公頼(武田信玄正室三条の方・本願寺顕如室如春尼の父)関白で左大臣の二条尹房 ら公家も殺された。
これにより大内氏は事実上滅亡する。