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マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

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公式ではなく非公式です。

大内義隆

2017-10-10 15:04:59 | 戦国武将・戦国姫図鑑
大内義隆
【諱】
義隆
【苗字】
大内
【朝臣】
多々良
【生没】
1507年ー1551年
【父親】
大内義興
【母親】
内藤弘矩の娘
【兄弟】
大宮姫(吉見正頼室)
女(大友義鑑正室)
女(細川持隆正室)
女(一条房冬室)
大内弘興
女(足利義維正室)
【正室】
万里小路貞子
【子息】
珠光
大内義尊
大内義教
大内義胤
【養子】
大内晴持
大内義長
尾崎局(毛利隆元室)
【解説】
周防守護大名大内義興の子として生まれる。
大内氏は朝鮮半島にあった百済国武寧王の孫琳聖太子の末裔である。
聖徳太子に姓を与えられた琳聖太子は日本に帰化し義照と名乗った。
(5代の阿津太子は百済の名を名乗っていた。)
そして琳聖太子の13代末裔の盛房から大内を名乗った。
室町時代になると守護大名になり、高麗や李朝や明国の貿易で栄華を極めた。
義隆は年少児は乳母などの女たちに囲まれながら過ごし。
元服すると従五位下周防介の官位が与えられる守役に杉重矩がついた。
父に従い安芸武田氏の佐東銀山城攻めに参加する。
寧波の乱が起こり、日本における明貿易を独占する事に成功した。
22歳の時、尼子攻めの最中に父義興が亡くなり家督を相続し父と祖父と同じ左京大夫の官位を与えられる。
豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏と争い、松浦氏を従属させるなど九州戦線を展開する。
勝ち続けたが田手畷の戦いで少弐氏の家臣竜造寺家兼に大敗した。
その後、謀略で家兼を離反し少弐氏を弱体化し大友氏と戦うが勢場ヶ原の戦いで失敗。
その失敗を補うべく、九州探題渋川義長を滅亡させる。

一方で朝廷関係では後奈良天皇の即位礼の際に銭2千貫(3億円)を寄進し大宰大弐叙任を申請する。
一時は許可されたが、すぐに取り消されているがなんとか叙任する。
その後九州攻撃の大義名分を得て少弐資元を滅亡し、竜造寺氏を配置する。
12代将軍足利義晴(義輝・義昭の父)の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦九州戦線は一時休戦。
出雲の尼子晴久と戦うようになり、武田信実・信重ら安芸武田氏と友田興藤ら友田氏を滅ぼし戦況を有利に進めた。

月山富田城の戦いで尼子氏を追い詰めるが、敗退。
養子であった大内晴持が撤退中に船が転覆し溺死してしまい、これが原因で政治的にも軍事的にも関心を失う事になった。
これが後の義隆の運命を決めた。

富田城の戦い以後、文治体制を展開。
フランシスコ・ザビエルと謁見し南蛮文化を保護するが。
この頃から陶隆房や内藤興盛らと対立し、謀反の噂が流れるなど政情が不安定になり。
冷泉隆豊は討伐許可を求めたが、義隆はスルーした。
1551年、とうとう陶らが決起。
内藤興盛は陶の反乱を知っていながら、黙認。
襲撃された義隆は吉見正頼を頼るべく移動するが、暴風雨のため身動きできず。
大寧寺で自害。

◆辞世
「討つ者も討たるる者も諸ともに 如露亦如電 応作如是観」

大内義尊らも殺されたり、滞在していた三条公頼(武田信玄正室三条の方・本願寺顕如室如春尼の父)関白で左大臣の二条尹房 ら公家も殺された。
これにより大内氏は事実上滅亡する。
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桂元澄

2017-10-10 13:14:51 | 戦国武将・戦国姫図鑑
桂元澄
【諱】
元澄
【苗字】

【朝臣】
大江
【生没】
1500年ー1569年
【父親】
桂広澄
【母親】
不明
【兄弟】
桂元忠
桂就延
桂保和
【正室】
福原広俊の娘
【子息】
桂元延
桂元貞
桂元親
桂景信
女子(冷泉元豊妻)
桂広繁
桂元盛
桂元時
【解説】
毛利氏庶家坂氏の一族.桂広澄の嫡男。
一族で本家でもある坂広時が失脚、または叔父坂広秀が毛利元就の弟相合元綱を擁立し反乱を起こし失敗。
父は責任を取り自害し、元澄も後を追い自害しようとするが元就に止められ以後は家臣として活躍する事になる。
厳島の戦いでは陶晴賢に偽の内応書を送り、おびき寄せ成功し撃滅。
その功績で桜尾城主として厳島周辺を管理する。
自害を止められ元就の忠臣となった元澄は児玉就忠と共に嫡男毛利隆元の奉行人 赤川元保らと対立する事になる。
子孫は幕末の偉人木戸孝允と内大臣木戸幸一.男系子孫として内閣総理大臣で陸軍大臣.桂小五郎清澄。

【著名な子孫】
◆木戸孝允/桂小太郎
・長州藩士
・文部卿
・内務卿
(実際には天野元政の子孫)

◆桂太郎
・長州藩士
・大日本帝国陸軍.大将
・陸軍大臣
・内大臣
・内務大臣
・文部大臣
・大蔵大臣
・台湾総督
・内閣総理大臣
桂広繁の子孫

◆木戸幸一
・文部大臣
・厚生大臣
・内務大臣
・内大臣
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織田勝長

2017-10-10 10:47:22 | 戦国武将・戦国姫図鑑
織田勝長
【諱】
勝長
【苗字】
織田
【朝臣】
織田
【生没】
不明ー1582年
【通称】
源三郎
【父親】
織田信長
【母親】
不明
【養父】
遠山景任
武田信玄
【義母】
おつやの方
【兄弟】
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
羽柴秀勝
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
織田信正
徳姫(松平信康室)
相応院(蒲生氏郷室)
秀子(筒井定次室)
永姫(前田利長室)
報恩院(丹羽長重室)
於振(佐治一成継室)
源光院(万里小路充房室)
月明院(徳大寺実久室)
三の丸殿(豊臣秀吉側室・二条昭実後室)
鶴姫(中川秀政室)
慈眼院(北条氏直婚約者)
【正室】
池田恒興の娘
【子息】
津田勝良(子孫.金沢藩士)
【解説】
織田信長の5男として生まれる、生年は不詳。
岩村城主遠山景任の養子となり、岩村城に入る。
養母は信長の叔母おつやの方であり、両属していた遠山氏に信長の子すなわち勝長を入れたのである。
同年武田軍秋山虎繁の攻撃があり、おつやの方は婚姻し勝長は養育されるため甲斐に送られた。
この行為は信長を激怒し、後におつやの方を処断する一因になった。
そして武田家の元で、元服.織田源三郎信房と名乗る。
武田勝頼が長篠の戦で敗れると、兄織田信忠の軍勢に岩村城を奪還。
同時に勝長も奪い返された。
帰還後、父信長に謁見.尾張国犬山城城主に任命された。
武田征伐には兄に従い参陣、大戸浦野氏の従属や上野国衆の従属させるなどの指揮を取った。
本能寺の変で父信長は光秀に討たれ、兄信忠と叔父長利らと共に二条城に籠城。
奮戦のち戦死する。

子孫は金沢藩士として存続する。
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