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巨大ブラックホールの衝突が新宇宙を形成⇒循環宇宙論、有機物質から人間への進化メカニズム(循環論理の評価)⇒戦略的進化論

日本の原点

2011年05月01日 13時20分05秒 | 思考空間

 日本を形作ったもの、①それは大陸から来るには非常に厳しい海域環境と広すぎない島国、②徳川家康という極めて忍耐強い天才の出現だと指摘したい。

 私は歴史に弱いことを断った上で、申し上げるが、古代の日本は間違いなく、アイヌ人など先住民族が活躍した時代で、現在の日本人の大勢を形作っているのは、その後、朝鮮や中国などから渡ってきた民族の混合だ。縄文文化にしても、卑弥呼にしても、現在の日本との関連性は薄い。

 戦国時代の武将として、織田信長、豊臣秀吉も挙げられる。ところが、織田信長や豊臣秀吉が栄華を誇った安土桃山時代と徳川時代は明らかに異なる。自由で群雄割拠、徹底管理と安定と言う明暗の差。信長のおかげで秀吉が天下統一し、その後を家康が上手に奪い取ったことは明らかであるが、社会構造的には徳川時代を築くプロセスになったと考えるべきである。

 というか、徳川幕府が日本を統括してきた260年の時代がそれまでの日本人や日本文化をすっかり変えてしまったので、それ以前の歴史的な関連性が小さくなってしまったというべきだろう。それほど、徳川時代の統括・管理が徹底していたともいえる。

 徳川以前の日本人はもっとおおらかで、自然な笑いが見られたらしい。徳川以降、日本人は、管理され、周りを見ながら、笑ってよいかどうか判断するようになった。感情を抑えることが当たり前になった。それは現在に続いている。

 分かり易い例がある。歌舞伎だ。歌舞伎は江戸時代以前からあり、伝えられてきたもので、ほのぼのし、おおらかで、動作がゆったりしていて、現在のせっかちで、許容力の少ない日本の中で、際立った差を見せる。

 今でも徳川のフレームは残っているから、日本人が徳川家康に親近感を覚えるのは自然である。しかし、歴史を裏側から見ると、実は徳川時代は、全てが徳川家の繁栄と存在のために、全員が多大な犠牲を強いられてきた時代だった。

 徳川時代は長い平和が続いたが、それは対抗勢力を徹底的に弾圧し、発展の芽を摘んできた結果だ。言いがかりをつけては藩の取り潰し、縮小化、配置換えなど実施した。各藩を経済的に消耗させるため、参勤交代を強いた。

 最も悲惨だったのは農民だった。農民は生かさず殺さず、食料生産者だが戦力になりえる農民を生死のぎりぎりまで追い込んだ。当時農民は85%とされており、日本人の殆どの祖先が食うや食わずだった。

 最も身分的に上位にいた武士も決して、楽ではなかった。藩主から命令が有れば、理由に関係なく腹を切らなければならなかった。葉隠の記述の中に武士は死ぬことと見つけたり、と言う言葉がある。恵まれているはずの武士にとっても生活は質素・貧困で、生きてゆくことは精神的にも厳しいものだった。

 特筆すべきことは、徳川家をトップとする支配体制の中で、上席の管理者に対する無条件服従を良心に訴えたことだ。巧妙に忠誠心を植え付け、精神的支配を成し遂げた。同じ封建時代でも、ヨーロッパが契約で上下関係を作ったのとは全く異なるものだ。(1973年ごろ私はそのことをある冊子に書いた)契約を交わすとは対等な関係を意味し、21世紀の日本でも契約の対等性は満たされていない。

 つまり、徳川家支配が日本人の精神にまで浸透したことで、日本人は決定的に変貌した。ただ、一方で、当時の江戸(文盲率30%)は100万人を超え、当時100万人未満だったロンドン(文盲率80%)、パリ(文盲率90%)をしのぎ世界一の都市だったことが報告されている。日本人の勤勉性や優秀性は当時のロシア捕虜の書籍でも報告されている。

 何故、このような民族の大転換が、天才とは言え、たかが徳川家康の一人で出現で可能になったか?冒頭の地理的条件に戻る。李マネージャー(韓国の企業を誘致し事務所が広島にある)が言うには、陸続きの朝鮮は100回侵略されたらしい。ところが日本は、大陸ではないから、ライバルの出現は限定される。海がバリアになって簡単には侵略されない。比較的優位が日本では絶対的優位になる。

 ここまで読んでいただいた方に覚えていただきたいのは、現在の日本社会や文化や気質の基本構造は実質的に徳川時代に形成されたこと。つまり、例えば、日本は発展する社会構造か?と言えば、実は非発展系・安定系なのだ。徳川家にとって発展系の社会は強敵の出現につながり脅威となる。そのような脅威の芽は徹底的に摘まれた。

 例えば、日本に来る文化や技術は、海(渡るには難しい)がフィルターになって、レベルやポテンシャルの高いものに限定されるようになる。日本は自然に翻訳型になる。海外の文化や技術を取り入れては、独自の創意工夫で、熟成させ完成度を極めることになる。世界の製造業にとって日本は欠かせないものになった。しかし、そのノウハウも、かなりの部分を中国に渡してしまった。

 徳川家康もアメリカが軍艦を引き連れて開港を迫るとは考えていなかっただろう。アメリカの力づくの開港が日本を発展社会に誘導することになったが、150年を経て、日本が発展の頂点を極めた挙句に、また、日本では非発展系の仕組み・文化が露出することになった。

追記:悪口に聞こえてもいけないので、冒頭に挙げなかったが、実は日本の城の脆弱さも指摘しておきたい。日本の城は、木が主要な構成材料であり、表に露出し、城内には紙が多く使われていることから、火矢や砲撃に耐えられなかったこと、および、城内で長期間、食糧確保できなかったことが、日本に絶対的な支配者の出現を許した。

 例えば、大阪城が3年ぐらい攻撃に耐えることができたなら、歴史は変わっていた。3年と言うスパンは状況が激変する要素を含み、妥協が求められる。中世のヨーロッパの城は露出部が石なので、簡単に火矢や当時の砲撃で陥落することは無かった。侵入を防ぎ、農業を営み食料を確保できただろう。それもあって、対等な関係が築きやすく、契約が成立した可能性はある。

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