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荻野吟子(日本初の女医)の人生ダイジェスト

2024-08-08 16:23:14 | 日本人

〇1851年3月3日、埼玉県(現熊谷市俵瀬)の名主の家に生まれた。1868年、17歳で親の決めた相手と結婚。この結婚が彼女の運命と人生観を変えた。

〇結婚により夫から性病を感染させられ、実家に送り返され、1870年離婚(19歳)

〇大学東校(東京大学医学部)の附属病院に入院して静養(入院半年を含む計2年間)。

〇病原となった男の責任は問われず、慰謝料も払われず、女性だけが犠牲となる不条理が耐え難かった。性病の恐ろしさも知らされた。

〇性病が女性にとって苦痛なのは、何よりも患部を診る医者が男性ばかりであった事であった。多くの女性はそれを嫌って、病を悪化させた。

〇1873年、父の死後、22歳で上京。

〇1875年、24歳で東京女子師範学校(現お茶の水女子大)に入学し、物理、化学、数学などを学ぶ。

〇1879年7月、卒業(28歳。第1回卒業生。首席で卒業。)の日、教授永井久一郎(永井荷風の父)が、吟子の女医志願の希望を聞き、陸軍医監の石黒忠悳に紹介の労をとってくれ、石黒の口添えで「好寿院」という当時私立で唯一の医学校に入学できた。1882年卒業(31歳)

医術開業試験(東京府庁)の願書は、婦女に免状を与えた例がないとの理由で却下された。

〇荻野は「令義解巻8」「医疾令第24女医條」に女医がいたという事実を発見し、行政機関の壁を突破した。

〇1884年(33歳)9月、医術開業前期試験を女子に初めて解放⇐同年1月法改正。4人の女子が受験し、荻野だけが合格

〇1885年3月、後期試験が実施され、荻野は一発合格(34歳)した。日本初の女医の誕生。5月、東京本郷湯島三組町(近くに歓楽街があった)で「産婦人科荻野医院」を開業

〇女医の出現は、女性に与えた影響が大きかった。女性でもやろうと思えば何でもできるという希望に燃えた女性たちに、大きな光を植え付けた。新聞にも報道しされた。5年後5人、10年後には37人の女医が誕生した。

〇1886年(35歳)、海老名弾正牧師の本郷教会でキリスト教の洗礼を受けた。

〇1886年、矢島楫子東京婦人矯風会が設立されると、この運動に参加。キリスト教主義の婦人運動団体。地位向上・権利確立をめざす。19世紀後半アメリカに起こった禁酒運動の影響下に設立。93年、全国的組織としての日本基督教婦人矯風会が成立。会長矢島・ガントレット恒子・久布白落実・守屋東らが中心。禁酒運動に止まらず、一夫一婦制を唱え、発足以来特に廃娼運動を推進した。第1次世界大戦後は国際的つながりの下に婦人参政権運動平和運動へと進んだが、戦時は停滞。戦後平和運動などに活動。

〇1890年(39歳)、青年牧師志方之善(26歳。13歳年下の同志社大学生、クリスチャン)との恋に落ち結婚した吟子は、北海道の原野を切り開き、神(キリスト)の国を建設しようというユートピアにとりつかれ(背景に政治の国粋主義化)、1896年(45歳)で渡道インマヌエル(神と共にいるの意。現今金町)へ。

〇1892年(41歳)、『女学雑誌』に「本邦女医の由及其前途」発表。女性に「自立して生きる事」を教えた。

〇1897年(46歳)、政府に開拓地を取り上げられ瀬棚村荻野医院開業。しかし、失敗に終わる。

〇1905年9月(54歳)、夫志方が41歳で病死し、1908年(57歳)に再び帰京し孤独な老年を送り、東京本所新小梅町に小さな荻野医院の看板を掲げていたが、1913年(62歳)に死去(東京雑司ヶ谷霊園)。

※現在、今金町には志方と吟子の教会が設立されている。

※2010年末現在における全国の医療施設に従事する医師数は、総数280431人、男性227429人(81.1%)、女性53002人(18.9%)であったが、現在はどのようになっているだろうか。

(2020年7月10日投稿)


 

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