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「4・3事件」大日本帝国政府敗戦直後の植民地朝鮮の動きと日本人官僚と進駐アメリカ軍

2025-04-21 11:37:39 | 朝鮮問題

 朝鮮民族は1945年8月15日(神聖天皇主権大日本帝国政府昭和天皇の臣民への敗戦放送日)、朝鮮建国準備委員会を結成し、9月6日には朝鮮人民共和国(主席:李承晩、副主席:呂運亮、内務部長:金九)を発足した。それに対し米国北緯38度線で分割占領する事をソ連に提案し、米軍を9月7日に南朝鮮に進駐させ、9月9日に朝鮮総督府を解体し軍政を開始した。日の丸を降ろし星条旗を掲揚した。南朝鮮の民衆は米軍を解放軍だと思ったが、占領軍でしかなかった。アーノルド軍政長官は朝鮮民族が独立のために準備した自治組織を認めず、建国準備委員会などすべて解散させ、10月10日には人民共和国を否認し弾圧した。上海臨時政府も認めなかった。米国の軍政は占領支配であり、大日本帝国による植民地支配の延長に他ならなかった。米軍は公用語を英語とし、朝鮮総督府に仕えていた日本人官僚たちを顧問として使った。官僚たちは日本へ帰るまで米軍の支配機構で服務し、それなりの処遇を受けた。その末端で、警察官教師を引き受けたのは、「親日派」と呼ばれる、大日本帝国の植民地支配に服務した朝鮮人たちであった。そして、米軍にとって頼りにできたのは、植民地支配をしていた日本人官僚であり、その下で服務していた朝鮮人であった。今日の韓国社会で「親日派」が影響力をもつのは米軍政(米国政府)が原因なのである。

 45年12月、米英ソ3国外相会議で、米ソ合同委員会管理下で臨時政権を具体化し、同政権を米英ソ中4カ国による5カ年間の信託統治下に置く事に合意(モスクワ協定)し、同月28日に発表した。それに対し、即時独立を求める朝鮮民族は信託反対運動を開始した。金九らは「信託統治反対国民総動員運動委員会」を結成。46年1月に朝鮮共産党が信託賛成方針を打ち出し、モスクワ協定支持集会を開催すると、呂運亮・許憲朴憲永らは「民主主義民族戦線」を結成。朝鮮民族は信託統治の賛成・反対で分裂した。米軍政庁はこの分裂を利用し、金九・李承晩・李奎植らに大韓民国代表民主議院を構成させ、米軍政の最高諮問機関とした。46年3月20日、米ソ合同委員会が開催されるが、朝鮮臨時政府樹立のための「協議対象団体」選定基準で対立。5月21日にも再開されるが10月20日再び対立した。

 1947年9月23日、米国政府はモスクワ協定を無視し、一方的に朝鮮独立問題を国連総会に持ち込んだ。ソ連は朝鮮問題の国連討議はモスクワ協定に違反している事、戦後処理問題を国連で討議するのは国連憲章違反である事などを理由として反対した。しかし、第2回国連総会は、国連の監視下で48年3月31日までに朝鮮で総選挙をする事、選挙後できる限り速やかに国民政府を樹立する事などを決議した。

 48年2月26日、米国は国連総会開催を提案し、国連臨時朝鮮委員会が接近できる地域(南朝鮮)だけでも選挙を実施する事(南朝鮮単独選挙)を決議した。3月1日には米国占領軍司令官ホッジは単独選挙を5月10日に実施する事を発表した。そのため、単独選挙に反対する朝鮮民族は4月3日、4・3済州島蜂起を起こした。また、4月20日には全朝鮮政党社会団体代表連席会議(平壌)を開催し、全朝鮮の56の政党社会団体の695人の代表者(うち南朝鮮から40団体、395人)が参加し共同声明を発表した。その内容は、

一、外国軍隊の即時・同時撤退

二、その後に民主主義臨時政府を樹立する事

三、同政府は秘密投票によって、統一的朝鮮立法機関選挙を実施する事

四、朝鮮憲法を制定し、統一的民主政府を樹立する事

五、南朝鮮の単独選挙に断固反対する、というものであった。

しかし、選挙は李承晩の大韓独立促成国民会ら一部の団体と無所属だけで強行した。

 48年5月31日、制憲国会を開催し、7月12日、憲法承認、20日李承晩を大統領に選出し、8月15日、大韓民国を成立させた。しかし、10月には麗水・順天で軍隊が反乱を起こし、智異山一帯でパルチザン闘争が起こり、民国政府は11月16日には国家保安法を制定してこれに応じた。

 北朝鮮では1948年6月、「南北朝鮮諸政党・社会団体指導者協議会」を開催し、「南北朝鮮代表者による朝鮮中央政府樹立」を決定した。7月10日、北朝鮮人民会議第5次会議で朝鮮民主主義人民共和国憲法の実施と全朝鮮朝鮮最高人民会議選挙の実施(8月25日)を決定し、572人(南朝鮮360人、北朝鮮212人)を選出した。9月2日、第一回朝鮮最高人民会議を開催し、8日憲法承認、9日朝鮮民主主義人民共和国を樹立した。

 最高人民会議議長  許憲(南朝鮮代表)

 内閣首相      金日成

 副首相       朴憲永(南朝鮮代表)

 

 上記のように、米国政府の戦後の冷戦の世界戦略により、朝鮮民族の即時独立の意志は大日本帝国の敗戦直後からすでに否定され、統一国家樹立の希望も狡猾で卑劣で残虐な暴力により粉砕されたのである。米国ははじめから朝鮮民族の解放者になるつもりはなく、新たな支配者となるために南朝鮮を占領したのであり、大韓民国政府とその国民は米国というくびきから抜け出せていないのである。日本政府とその国民も同様であるが。

(2019年10月14日投稿)

 

 

 

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金石範著「済州島四・三武装蜂起について」(「季刊三千里」1975年秋通巻3号より)その➀

2025-04-21 11:36:45 | 朝鮮問題

 1948年までの南朝鮮の歴史。8月15日に戦争が終ってから、8月26日に米軍が日本にやって来る。9月8日には朝鮮の仁川に上陸する。翌9月9日ソウル入城。そして済州島へは、9月中旬に上陸する。10月には米国に亡命していた李承晩の帰国。大日本帝国政府の朝鮮統治機構であった朝鮮総督府をそのまま受け継いだ米軍は、英語を公用語として強要し、南朝鮮派遣米軍司令官ホッヂ中将の「私が日本人の統治機構を利用しているのは、それが現在最も効果的な運営方法だからだ」という言明にも明らかなように、解放軍ではなく、日本の後釜に座るためにやってきた新しい支配者としての姿を人々の前に見せ始める。そして自らの支配を合理化するために、自国から李承晩を輸入し、その階級的地盤を地主資産家層に置いた。

 これより先、8・15直後、刑務所や地下から出てきた愛国者たちによって、南朝鮮は南朝鮮なりに人民委員会が済州島の村々にまで全国至る所に組織されたが、その人民委員会の代表1000名が9月6日ソウルに集まって大会を開いた後、「朝鮮人民共和国」をつくった。しかしまもなく米国政府は米軍政庁が唯一の統治機関だとして、これを否定解散に追い込む。このような事態の推移に大方の朝鮮人は目が覚め、米国政府が解放軍だという幻想を捨てるようになるが、しかし、今度逆に、解放後、民衆の報復を恐れて隠れていた者たちが、米国政府と結びついて新しい勢力を作り始める事になる。

 45年12月には、モスクワで三国外相会議(米英ソ)が開かれ、⑴朝鮮に臨時政府を樹立する。⑵臨時政府樹立のため米ソ共同委員会をソウルに設置する。⑶5年間の4カ国(米英中ソ)の信託統治を行い、その間に臨時政府を樹立する事などが決定される。翌1月、ソウルで三国外相会議決定実現のための米ソ共同委員会が開かれ、臨時政府樹立の討議を重ねるが、会議は進まず暗礁に乗り上げる。

 1946年は米国政府が南朝鮮にファシズムの道を切り開く、南朝鮮の人民にとって最初の大きな試練であった。大邱に端を発して全国的な闘いに広がった「10月人民抗争」は、この強まる米国政府の弾圧に対する民衆の集中的な抵抗である。

 47年5月、約1年ぶりに破綻したままだった米ソ共同委が開かれて、ソ代表は48年中に南北から双方の軍隊を撤退させ、朝鮮人民自身に政府樹立を任せようと提案するが、米国政府はこれを拒否、第3回国連総会に持ち込む(9月)。朝鮮問題は戦勝国の戦後処理の問題に属し、国連が討議する権限のないものだったにもかかわらず、当時米国政府の挙手機に化していた国連はこれを受け入れて、臨時朝鮮委員会をつくり、そこで朝鮮の統一問題が討議されるという変則的な三国外相会議決定にも違反する処置がとられる。こうして朝鮮人の意思とは全く関係のないところで、朝鮮の南北代表もオブザーバーとして参加させないまま、UN臨時朝鮮委員会(9カ国)監視下の総選挙が3月31日までに行われる事に決定される。

※朝鮮が38度線で分割されたのには一つの根拠がある。沖縄陥落後、米軍の朝鮮上陸に備えて済州島にも10万とも20万ともいわれた日本軍が終結するが、北の関東軍、南の第17方面軍の各防衛分担の境目が38度線で、それは大日本帝国政府の利権を守るための軍隊の配置の境界線だったものである。そして関東軍の武装解除をソ連が、第17方面軍の武装解除を米軍が担当した。従って、はじめ38度線は日本軍の武装解除のための便法に過ぎなかったものである。

(2024年6月10日投稿)

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金石範著「済州島四・三武装蜂起について」(「季刊三千里」1975年秋通巻3号より)その➁

2025-04-21 11:35:32 | 朝鮮問題

 1948年1月6日国連臨時朝鮮委がソウルにやってきて選挙の準備に取り掛かる。南北朝鮮人民の強い反対に出会った臨時朝鮮委は3月31日の予定を5月9日に延ばし、さらに1日延びて5月10日にいわゆる5・10単独選挙を強行する事に決定する。これより先、UN朝鮮委は北朝鮮に入ろうとしたのであるが、北朝鮮はUN朝鮮委の不法性を指摘してこれを拒否する。すると、事態を予測していた朝鮮委はそれを良い口実にして、南朝鮮だけの単独選挙を決定した。しかし、これは38度線を国境として固定化し、朝鮮民族の永久的な分断を意味するものであった。100万以上の農民、労働者、市民が参加した2・7ゼネストを含めて南北民衆の死に物狂いの闘いが起こったのも、この民族分裂を自らの手で防ごうとしたものに他ならない。

 済州島でもゼネストに参加するが、4月3日の武装蜂起、ゲリラ闘争は以上のような全国的な5・10単独選挙反対、反米闘争の一環として起った。済州島でのゲリラ闘争のさなかに、北の平壌では南北政党社会団体代表者会議が4月19日から開かれている。北が300、南から395名が一堂に集まって、祖国の分断を防ぎ、統一を達成するための討議をするが、その会議には、民族主義者で右翼の巨頭と目された金九らも米国政府に支えられた李承晩たちの単独選挙単独政府樹立に反対して、38度線を越えて参加した。北から帰った金九は翌年6月、李承晩の手先によって暗殺される。

 5月10日、南朝鮮だけの単独選挙が銃剣のもとで流血を伴ないながら強行されるが、済州島ではゲリラがほとんどの投票所を破壊、そして住民の不投票のために選挙は成功しなかった。こうして、1948年8月15日、筋書き通りに「大韓民国」がでっち上げられ、李承晩が米国政府の忠僕として大統領になる。その年の9月、第4回国連総会では、米国政府の采配のもとに、朝鮮における唯一の合法政府として「大韓民国」が承認されるが、これが第4回国連総会第195号決定で、のちに1965年の韓日条約日本側が韓国を朝鮮における唯一の合法政府だと主張する根拠となったもので、今日の対朝鮮政策の基本を規定しているものである。

 済州島は面積が1800平方キロ、大阪府とほぼ等しい火山島で、昔から今でいう政治犯たちの流刑地で、原住民もいますが、住民の多くは本土から流されたり逃れてきたりした政治犯たちの子孫にあたる。私もそうです。島だからという事もあるだろうが、済州島には昔から反権力的な気風の伝統があった。李朝時代、大日本帝国政府の植民地時代においてもそうであり、四・三事件が起こったのは、一つにはそのような歴史的に流れてきている島民の非妥協的な気質によるところもある。

 四・三武装蜂起はその以前から準備が行われていた。解放後、済州島においても人民委員会の組織を軸にして朝鮮統一の要求と反米闘争が強く行われてきた。蜂起の約1年前の3月1日には、城内(市内)での三・一独立運動記念集会に全島から3万人もの民衆が集まり、米軍の撤退民主的な改革などの要求をかかげて大会が開かれた。この時騎馬隊を繰り出して弾圧にかかった済州島米GHQ(軍政庁)は、14歳の少年を射殺する。激怒した群集は少年の死体を担いで抗議デモを続けるが、これが島民と米国政府との最初の正面衝突である。

(2024年6月11日投稿)

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金石範著「済州島四・三武装蜂起について」その③

2025-04-21 11:34:45 | 朝鮮問題

 済州島の弾圧で特徴的なのは、西北青年団(北朝鮮から南へ逃れてきた者たちの中で組織された李承晩親衛隊的存在の反共テロ団)が、その先鋒になっている事である。済州島に入った彼らの数は数百とも2千名ともいわれる。済州島は日本における沖縄のように本土の人間から蔑視されてきたという事もあるが、そのせいもあって島民は一般的に政治的には革命的な傾向を強く帯びている。しかも弾圧が強まるにつれて済州島民は島の行政機関の上部から外され本土出身者西北青年団たちによって占められた。支配者、帝国主義者は常に差別構造を利用して民衆の対立分裂を画策するが、済州島ではさらに島民をアカ呼ばわりするイデオロギーの問題を差別感情に結びつけて朝鮮人同士で闘わせ、弾圧に拍車をかけた。

 48年四・三蜂起以前から、済州島では虐殺事件が起こっており、婦女子に対する種々の暴行が頻発している。朝鮮人を蔑視する米国に、同じ朝鮮人である「西北」の連中がまねて、済州島民はアカだから人間ではない、人間でない奴は殺されてしかるべしという論理のもとで、非道な事を続けた。すでに47年夏には済州島だけではなく、全南朝鮮で数千名の検挙が行われ、南朝鮮労働党も非合法に追い込まれる事態が起こっている。そして、米国政府の南だけの単独選挙による分断政策が明るみに出てきた時期に、全民族的な統一と独立への闘いが一層強くなるが、済州島の場合は、李承晩の手先である西北青年団に対する抵抗防衛という生活上の問題を合せて含みながら、本土との連携のもとでゲリラ闘争の準備が極秘裏に行われていた。

 4月3日午前2時、その全島の側火山と主峰のハルラ山から一斉に闘いの烽火が上がった。そしてゲリラ隊は「単独選挙、単独政府反対、米軍は撤退せよ、朝鮮統一万歳」などのスローガンをかかげて米国政府李承晩の軍隊に戦いを布告した。これが南朝鮮におけるゲリラ闘争の始まりである。済州島は当時20数万の人口であったが、島なので縁故や親戚関係が多く、横のつながりが強くて当初はほとんどがゲリラ側だった。昼は米軍の支配、夜はゲリラの支配であった。主な武器は日本軍が米軍に武装解除される前に、ハルラ山に埋めたりした歩兵銃であった。それに竹槍などで武装した人々が数百人ハルラ山に立てこもっったが、その勢いは次第に大きくなって行く。米軍政庁などのある市内の心臓部には攻撃を仕掛ける事ができなかったけれど、投票放棄の宣伝活動も活発に行われ、各所の投票所警察などが襲われて、済州島における5・10単独選挙の強行は完全に失敗に終わる。この勝利は済州島だけにとどまったが、しかしやがて南朝鮮の山岳地帯を根拠地にしたゲリラ闘争へと拡大して行き、それは米国政府の軍事統治を根底から揺るがす力になる。米国政府は南朝鮮全域における革命的な戦いの根を断つために、まずゲリラ闘争の震源地である済州島を抑圧する必要があった。その結果がベトナム虐殺の原型ともいえる「第2次大戦後最初の虐殺」となった。

 こうして孤島での孤立した状態での戦いは壊滅するようになる。ゲリラが完全に無くなるまで約8年かかるが、しかし大体1年で大勢が決まり、49年の後半に入ると決定的な壊滅の時期に入る。ほとんど1年足らずの間に8万人近い人間が死んで行った。済州島民で、それは日本に住んでいる済州島出身者の間でも同じであるが、その家族あるいは親戚のだれかで死んでいない人はいないといえる。1948年8月15日、李承晩を大統領にすえてでっち上げられた「大韓民国」というものは、このような人民の犠牲の上にでき上ったものであった。

(2024年6月11日投稿)

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金石範著「済州島四・三武装蜂起について」その④

2025-04-21 11:33:56 | 朝鮮問題

 壊滅期のゲリラ闘争について具体的にいえば「戦略村」があった。済州島は中央が山岳地帯なので海岸部落が多い。ハルラ山の麓にある山間部落と海岸部落との間に中山間部落というのがあるが、ハルラ山のゲリラへの補給と連絡路を絶つためにこれらをまず焼き払う。そして石垣の城壁や鉄条網をめぐらした「戦略村」に強制収容してしまう。のちには海岸部落の中で一人でもパルチザンが見つかるとか、またゲリラと連絡をとっている者を捕えた場合には、予告もなしに部落全体に火を放って焼き払うようになる。

 こうして済州島は人間の死体のうず高く積もるところとなる。今はカラスがあまりいないようなのだが、昔は何処へ行っても眼につくくらい非常に多かった。済州島のカラスは常に人間を食うとは限っていないし、他の鳥と同じように自分なりのエサを捜していたものである。ところが、済州島事件が起こってから死体がごろごろ転がるようになったものだから、カラスはエサを捜す必要もなく人肉をついばみ、よく肥え太り、その体を蔽った黒い羽毛は光沢を放ち、まさにカラスが飽食した時期だった。本当に今済州島にカラスがあまりいないとすれば、原因はわからないが、仮にそれは済州島の路上に人間の死体がなくなってからだと考えればどうなるのか。人肉に馴れすぎた彼らは一体何処へ、どのようなエサを求めて行ったのかと、私は変な想像をしたくなる。

 さっき「大韓民国」の成立について述べたが、それから約1カ月後の9月9日、臨時首都を平壌に置いた朝鮮民主主義人民共和国が創建される。当時は南朝鮮で秘密投票が行われ、南北人民の総意のもとにあの国はつくられた。まだ地下組織が強かったので南の人民も秘密つまり地下投票に参加する事ができたのであるが、だからこそ朝鮮人民の総意を反映した唯一の合法的な政府であり、人民自らがかちとった政権だという気概があって、議会では当分南朝鮮代表の議席が残されていた。しかし、米国政府国連ははじめから北朝鮮敵視し、まもなく2年足らずで朝鮮戦争に突入する。1948年末頃から始まるゲリラの壊滅期の司令官李徳九という人がいるが、済州島事件を語る場合、彼をぬかすわけにはいかない。彼は一時在日朝鮮人として大阪に住んでいて大日本帝国政府学徒兵となり、ポツダム少尉として済州島に引揚げた青年で、中学の先生をしていた時から地下活動、やがて四・三蜂起に参加して、のちにゲリラの司令官となる。

 李徳九司令官の時期に、それは1949年であるが、米国政府による3月攻勢というのがある。戦況が不利になりながらもゲリラは頑強な抵抗で敵に脅威を与えるが、ついに米国政府南朝鮮派遣軍事顧問団団長ロバート准将が直接指揮をとり、李承晩政権の国防長官警務長官らも本土から兵を入れて済州島に乗り込む。そしていわゆる「帰順工作」をやり始めたのであるが、それは同時に済州島ゲリラ殲滅作戦でもあった。権力側はゲリラを「共匪」などという呼び方をし、済州島では、それが、「アカ」イコール人間ではないという意味を持っていて、島民を虐殺するもっともらしい口実になった。米軍の飛行機、駆逐艦まで動員されて3、4百名のゲリラ討伐に数万の兵力が投ぜられ、しかも手当たり次第の虐殺が、済州島人は全部「アカ」だからガソリンをぶっかけて「没殺」(=皆殺し)にせよという命令のもとに、一大ゲリラ殲滅作戦が行われた。

(2024年6月11日投稿)

 

 

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