つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

福沢諭吉は独善的傲慢的排他的侵略主義者以外の何物でもない。お札から退場をさせよう。

2024-09-15 08:46:57 | 日本人

※以下は2018年1月15日に投稿したものに加筆修正したものです。

 お札にどのような人物(肖像)を載せているかで、少なくともその国の政府の考え方を知る事ができる。つまり、政府が高く評価している人物であると考えてよい。また、国民の間でその人物に対し違和感を感じる事なく、また否定的に受けとめられる事なく受け入れられているとすれば、それがその人物に対する国民の理解の大勢であると考えてよいだろう。日本政府は1984年から福沢諭吉を1万円札に載せている。2004年に政府は紙幣の人物を一斉に入れ替えたが、福沢諭吉だけは替えなかった。しかし、その時点で、メディアも国民も問題視しなかった。例外的に、朝日新聞の「声」欄にだけ「アジア軽侮の諭吉なぜ札に」という題で、アジアに対して強硬な国権論者であった福沢を起用する国際感覚の欠如は理解できない、との批判が載った程度の認識であった。それはつまり、政府は意図をもって(福沢がアジアを蔑視しアジア侵略の先頭に立っていた真実の姿を隠蔽し、民主主義の先駆者であるかのように歴史を修正歪曲し)お札に載せているのであるが、国民は福沢に対する知識不足や無知のためにその事に疑問を持たなかったという事なのである。そして現在においてもその状態が続いているという事を示しているという事なのである。

 福沢諭吉は『学問のすすめ』(1872~76)で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといえり」と述べているが、この「いえり」(伝聞態)とした事情について、彼自身の言葉ではない事を示すため、また、彼が人間平等論や天賦人権論に同意・同調していない事を示すために「伝聞態」にした事を表明していた。

 また「一身独立して一国独立する」という言葉は、「国のためには財を失うのみならず、一命をも投げうちて惜しむに足らない」とする、国家主義的な報国の大義の事であり、滅私奉公的な愛国心の事を意味しているのである。『文明論之概略』(1875)においても、「先ず事の初歩として自国の独立をはかり、一身独立のようなその他の課題はこれを第二歩にのこして、他日なす所あらん」と述べている。つまり、「天賦国権、国賦人権」という国権中心主義的な近代化路線を提示していたのである。

 また、自由民権運動期においては、『学問のすすめ』(1872~76)のような、一般大衆の啓発はもうやめたと表明していた。

 大日本帝国憲法と教育勅語を「完美なる憲法」と手放しで賛美し、「思想、良心、信教の自由」「学問の自由」に対する弾圧・蹂躙という事態に対しては完全沈黙を通す事により、政府の弾圧に加担している。

 また、「強兵富国」の対外強硬路線の主張と、「内国の不和を医するの方便としてことさらに外戦を企てて、もって一時の人心を瞞着(欺く)するの奇計をめぐらす」という「権謀術数」的発言をしていた。このような福沢に対して、同時代の元外務省勤務の吉岡弘毅は「我が日本帝国をして強盗国に変ぜしめんと謀る」ものであり、日本がもしその道を進むのなら、「不可救の災禍を将来に遺さん事必せり」と厳しく批判している。

 日清戦争については、『ベルツの日記』によると、「時事新報を先頭に全新聞紙は、敵を完全に粉砕するまではいかなる条件のもとでも講和しない事を要求している」「台湾、満州と他になお清国の一州を併合せねばならぬと主張している」と記録されている。

 また、1897年、神聖天皇主権大日本帝国政府が工場法の制定を立案した際、工場では多数の学齢児童の存在が、低賃金・長時間労働の日本の資本主義を支えていた事から福沢は大反対した。

 また宗教について、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせならん」と経世の道具として利用する事を主張していた。そして、神聖天皇制の本質が「愚民を籠絡する詐術」「国民をたぶらかすための騙し」の政治装置であると見抜いた上で、明治日本にはそれが必要だとの判断をしていた。時事新報論説「戦死者の大祭典を挙行すべし」(1895)には、戦争に備えて死を恐れずに戦う兵士の精神を養うために、可能な限りの栄光を戦死者とその遺族に与えて「戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざるべからず」、つまり戦死する事が幸福であると感じさせるようにしなければならない。そのために帝国の首都東京に全国戦死者の遺族を招待して、明治天皇自らが祭主となって死者の功績を褒め讃え、その魂を顕彰する勅語を下す事こそが戦死者とその遺族に最大の栄誉を与え、戦死する事を幸福と感じさせる事になると主張していた。これは靖国神社の軍国主義的政治利用の奨励である。

 また、福沢は家父長的な差別的女性論を体系化した人物であり、娼婦の海外出稼ぎ(からゆきさん)を含め、公娼制度の積極的な賛成論者であった。

 また、福沢は1901年2月に死去したが、『自叙伝』には「実に今度の戦(日清戦争)は空前の一大快事、……今や隣国の支那朝鮮も我が文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実もって望外の幸せに存じ候」「大戦争に国光を世界に輝かして大日本帝国の重きを成したるがごときは、……思えば洸として夢のごとく、感極まりて独り自ら泣くの外なし。長生はすべきものなり」「この日本国を兵力の強い商売の繁盛する大国にして見たい……それが大本願で……勝利、愉快とも有難いとも言いようがない。命あればこそこんな事を見聞するのだ。……私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかり」と述べている。

 以上は、福沢諭吉についての一部であるが、これだけ見ても彼は、人権尊重の民主主義者とは正反対の、独善的傲慢的排他的侵略主義者以外の何物でもないとしか評価できないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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