清沢洌(1890.2.8~1945.5.21)は、リベラリストとして神聖天皇主権大日本帝国政府の軍国主義を批判した人である。以下に紹介するのは彼の著『暗黒日記』1945年1月1日の内容である。
「昨夜から今暁にかけ三回空襲警報なる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。……日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争はそんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼等は味わっているのだ。だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に、彼らは戦争の英雄的であることに酔う。第三に、彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。総ての問題はここから出発しなくてはならぬ。日本が、どうぞして健全に進歩するように─それが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように─。「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない。……ダンバートン・オークス案は成立するであろう」
※ダンバートン・オークス案……1944年8月~10月、ワシントン郊外の左記の地で、米・英・ソ・中の代表が国際連合憲章原案を作成した。連合憲章は、「2度までの絶大な戦争の惨害から将来の世代を救う」(前文)目的のもとに、1945年6月26日に調印された。
(2024年9月12日投稿)