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朝日写真館 プロパガンダ 戦意高揚突き進んだ果て「1936年毒ガスマスク装着防空大行進」は自国の犯罪行為への報復を怖れる証拠写真 

2023-04-30 20:44:53 | アジア・太平洋戦争

 2022年8月13日の朝日新聞「朝日写真館」欄が、「プロパガンダ 戦意高揚突き進んだ果て」の大見出しで掲載した写真中に、「1936(昭和11)年 空襲による毒ガス攻撃を想定し、防毒マスクを着けて大阪市内を歩く人たち」とし、「朝日新聞社が主催した『防毒面装着防空大行進』で、2・26事件後に軍国主義が強まる中、防空演習防毒訓練が各地で頻繁に行われた」と説明したものがあった。もし毒ガス兵器に関して、広い知識やそれを基にした適切な認識力を培っていない人が、これは若い人とは限らないのであるが、この写真を見、説明を読んだ際、果たしてどのように認識するだろうか?正しく認識できるのかその事が心配であった。メディアは読者に誤解を生じさせないよう、伝えたい意味内容目的を明確にし、その意味内容目的が正しく伝わるよう、「丁寧な説明」を添えるべきだろう。安易な気持ちで簡単な説明を添え写真を掲載したのであれば、歴史事実を修正改竄する犯罪行為に陥る事になるだろう。

 アジア・太平洋戦争で、日本本土各地が初めて米国政府空軍による空襲を受けたのは1942年4月18日であった。本格的な空襲が始まるのは1944(昭和17)年7月7日サイパン島陥落以後であった。同年11月24日以後は連日のように襲った。しかし重要な事は、米国政府空軍は「毒ガス弾」を投下した事実はまったくなかったという事である。爆弾ナパーム焼夷弾を投下したのである。B29が投下したナパーム焼夷弾は、B291機に80個積まれ、投下後目標上空300mでさらに48個の焼夷弾に分散して降り注いだので、1機が3840発の焼夷弾を投下した事になる。「米国戦略爆撃調査団報告書」によると、米国政府空軍が投下した爆弾や焼夷弾の総重量は16万1425㌧、B29の出撃回数は353回、延べ出撃機数3万3041機で、損失率は1.4%であった。

 さて、話を本題へ戻そう。神聖天皇主権大日本帝国政府下における、空襲に関しての対応については、2・26事件が起こった1936(昭和11)年6月には(翌37年には日中戦争を開始)、東部防衛司令部が『わが家の防空』というパンフレットを編纂し、「これからの戦争は、空襲に始まって空襲に終わります。ですから我々国民は宣戦布告の前から戦争の全期間にわたって、絶えず敵の空襲のあることを覚悟しなければなりません」と述べ、1937年10月1日には内務省が「防空法」を施行し、防空演習防空訓練を実施するよう定めた。パンフレットの内容は焼夷弾を想定した消火訓練、「ガス弾に備えた防護訓練」、灯火管制の実施などであった。そして、各家庭に周知徹底するために『家庭防空の心得』なる印刷物を配布した。

 『心得』の中の「防毒」と題した囲みには、その囲み右側に「主要毒ガスの性能と救急処置」として表形式で「生理作用による区別」「毒ガスの名称」「臭気」「作用時の形態」「主なる生理的作用」「消毒剤」「救急処置」「持久力」「防毒具」などについて詳しく説明している。表の下部には「毒ガスに対する処置は」の見出しで、➀決して騒いだり慌てたりしてはならぬ➁火の元に注意せよ③家に在る者は戸障子を閉め防毒室防毒蚊帳の中に入り少なくとも一名は防毒面を着て外を警戒せよ④屋外に在る者は早く退避せよ⑤ガスは風下に流れるから風向きに注意して風上に避難せよ⑥防毒面がない時には手拭等を濡らして鼻口にあて出来れば一時呼吸をやめて速やかに被毒地域を逃れよ⑦ビランガスが身体に附いたら直ちに拭い取る等の応急処置をして救護を受け⑧ガスに中毒したと思う者は速やかに救護班の救護を受けよ、とある。そのさらに下部には「防毒室の造り方」として、「適当な一室を『防毒室』に充て、戸障子、天井其の他の隙間をハトロン、障子紙等で充分に目張りをし、老人子供の避難所を設けねばならぬ、防毒室の入口は押し開きか、立てかけの戸がよい」としている。また、防毒室・防毒蚊帳の棲息可能時間(約7時間)の「広さ」とその「収容人員」を細かく記載している。このような動きが背景にあった事を示す写真であったという事である。

 しかしなぜ、早い時期から、「防毒演習」や「防毒訓練」を実施したのだろうか?その理由は、神聖天皇主権大日本帝国政府の「毒ガス兵器」=化学兵器開発に対する姿勢にあったのである。

 化学兵器に対する国際社会の動きは、

1868年セント・ぺテルスブルク宣言(化学兵器禁止の条約として最古のもの)

1899年第1次ハーグ条約(窒息性ガス或は有毒ガスの散布を唯一の目的とする投射(投げたり・撃ったり)物の使用禁止の宣言を採択(大日本帝国の批准は1900年)

1907年第2次ハーグ条約(有毒の兵器使用の禁止。大日本帝国の批准は1911年)

第1次世界大戦では、毒ガスを兵器として大々的に使用。毒ガス被害者は100万人を超えた。

ドイツは、ハーグ条約が規定しているのは「投射物」の使用禁止で、ドイツ軍が使用した毒ガスは固定したボンベの中から放出させたのだから条約違反ではないと言い逃れた。そこで化学兵器の使用禁止を実現するため、

1925年ジュネーブ議定書(第1次世界大戦の悲惨な経験を経て、「戦争中に窒息性、毒性あるいはその他のガス及び細菌作戦装置を禁止」した)。しかし、ここでは毒ガス兵器の実戦使用だけを禁止し、研究・開発・保有については制限していなかった。大日本帝国政府は調印したが、調印後、批准しないまま(批准は1970年)それ以前から進めていた化学戦の準備を秘密裏にさらに進めたのである。

1918年陸軍軍医学校に化学兵器研究室(責任者小泉親彦)をつくる(シベリア出兵で大量のガスマスクを送った)。陸軍省に臨時毒ガス調査委員会を設置し、毒ガス研究を開始(欧米視察)

1919年陸軍科学研究所を創設し、毒ガス委員会の主力メンバーが移った。

1926年参謀本部に毒ガス研究委員会を設置(29年化学戦委員会へ)

1929年広島県大久野島東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所を設立し、毒ガス製造を開始した。戦前は国民の眼にできる地図から消され、毒ガスの製造はもちろん、島の存在さえも秘密にした)

※大日本帝国軍が実戦で初めて毒ガスを使用したのは、1930年の台湾の原住民によよる抗日闘争「霧社事件」の時であった。

 毒ガス工場では、各種の毒ガスを製造したが、1935(昭和10)年までにはドイツ式・フランス式ビラン性(インペリット、ルイサイト)、中毒性(青酸)、窒息性(塩化アセトフェノン、ホスゲン)などを製造した。陸軍による毒ガス戦(化学兵器戦)の実態については、軍関係者以外の日本人には秘密にしてきたため、国民は事実を知らなかったが、1984(昭和58)年マスコミが報道し、研究開発は旧陸軍科学研究所(東京)、大量製造したのは大久野島、充填は曽根(北九州市)、運用・訓練は旧陸軍習志野学校で行われたという大日本帝国政府による化学兵器戦の構図が国民の前に明らかになった。

 中国における大日本帝国陸軍のよる毒ガス攻撃地点は中国の全都市に及び、1937~1945年の間に2091回の毒ガス使用が確認されており、9万4000人の死傷者を出していた。しかし、「毒ガス戦」は第731部隊(細菌だけでなく毒ガス兵器の効力も捕虜を使って生体実験していた)と深く関わりを持っていたことから、「細菌戦」と同じく、戦後の極東国際軍事裁判では不起訴となった。

 大日本帝国陸軍は敗戦後中国に大量(中国側調査では総数200万発で薬剤100㌧)の化学兵器を遺棄してきた。吉林省・河北省・黒竜江省・遼寧省・浙江省・江蘇省・江西省などの30数か所に及んでいるが、大部分は戦後中国政府が吉林省敦化市郊外のハルバ嶺に集めて埋設した。戦後、漏出した液剤などで数千人の中国人が死傷したといわれる。そのため、1997年4月29日に発効した化学兵器禁止条約には遺棄毒ガスの廃棄義務が盛り込まれている。

 敗戦後米国政府軍により廃棄処理された日本国内の毒ガス(弾)は大久野島内に埋設されたほか、北海道の屈斜路湖、関東の銚子沖、相模沖、東海の遠州灘、四国の土佐沖、九州の別府湾、中国地方の周防灘、大久野島周辺域など8カ所の地域に海洋投棄されたままである。

(2022年9月18日投稿) 

 

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