静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ JASRAC:音楽教室での練習用にも課金? ≫ 納得できぬ      ≪ 言葉 vs 数式 ≫ 本質を語るに雄弁なのはどちら?

2018-03-07 10:54:44 | トーク・ネットTalk Net
◆ 昨日であったか、記事が見当たらないのだが、例の音楽に関する著作権を巡り日本著作権協会(JASRAC)による課金申し立てに対して起こされた、ヤマハを代表とする側の訴訟が、「文化審査会」の裁定では意外にも同協会の言い分を認める方向で出されそうだ。
  随分前、私は本件を取り上げたが、著作権料を請求する原理とは、コンテンツを提供することによって受けた側が享受する利益への対価を求める権利を保障する目的だ。それは音楽でも文学でも同じ原理であるが、印刷や演奏を通じて第3者から入場料や書籍代金として対価を受け取ることで作者が報われる仕組みであろう。

 では、演奏や作品の公開ではない、音楽教室の中で教える為の教材として利用/借用/編曲/引用される場合、其のコンテンツが持つ芸術的価値は習う側/教える側ともにエンジョイしたことになるのだろうか? 習熟おぼつかない段階の生徒が奏でる曲で、誰が芸術的価値を享受したというのだ? また、生徒が発表会で演奏に使用したから、その曲の著作権がプロの演奏家ではないのにも関わらず、対価を貰うべき著作権の発露なのだろうか?

 教える先生は教える活動で、其の作品から何かをエンジョイしたことになるか?  生徒から先生に教授対価は払われても、それは曲や作者への直接対価ではない筈だ。
 之を言いだせば、全ての練習曲/エチュード/教則本は販売時に加え、家庭や教室での使用にも対価を払え、という論理になる。    何かオカシクない?

★ 雄弁なれど実はない=中村秀明 https://mainichi.jp/articles/20180307/ddm/003/070/104000c?fm=mnm
・ 17日から全国で公開されるイタリア映画「修道士は沈黙する」の内容を紹介がてら、経済・金融のボスたちが交わす会話から見受けられる「数値/数式万能」の頭脳構造で生きて来た
  人々の滑稽で現実離れした者の観方や生き方を現実の政治経済に当てはめてみようと、中村氏はしている。
   私はこれを読んで、再び、米国某大学教授で<アベノミクス><トリクルダウン>理論を安倍首相に吹き込んだ人物に直感したのと同じ感覚を想い出した。彼自身が、どうやら
  自分の理論は日本の現状に妥当しないと遅まきながら認めたという報道を昨年末に読んだけれども、未だに安倍晋三は旗を降ろせないでいるし、黒田日銀総裁も再任した。

 思えば、中学・高校の頃から理数系に秀でた人間には共通した風貌と言動・思想傾向がある。それは、世の中の100%とは言わないが、殆んど全ての事象は数値に置き換え、代表させられるのだから、人文科学で扱う心理/美学/哲学などは人生の余興に過ぎない。現実の世界を動かすのは経済であり、それに裏打ちされた「チカラ」即ち軍事能力だ、というものである。
 こういう世の中観で生きる人物にとり、政治経済は<物資・サービスの分配効率>の実践にすぎないから、格差問題も飽くまで分配率の変化や偏差にしか見えない。そこには、数値だけでなく人間の感情や喜怒哀楽が同時に世界を動かしてきたという洞察や個人目線での尊重は無い。
所詮、格差や不安定は、移ろいやすい世の一時的な変化なのだからと嘯く。これは恰も安倍首相が就任以来みせ続ける不誠実極まりない「誤魔化し」「数を恃んだ逃げ切り」そのものだ。
コメント
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